言語学する文法00 ~序~

僕は文法学者ではない。

かといって、世の多くを占める文法を毛嫌いするタイプでもない。端的に言って文法は好き。パズルみたいで楽しい。ただ、これだとパズルの楽しさがわからない人には文法の楽しさをわかってもらえないという泥沼にはまる。どうしたものか。

読んで字のごとく、文法は「ルール」だ。だからまずはルールについて考えてみることにする。ここでは簡単に、二つのルールを想定してみよう。わかりやすく、一つは「ネガティブなルール」、もう一つは「ポジティブなルール」と呼ぶことにする。

まずは「ネガティブなルール」から。ネガティブ、というのは少しわかりづらいが、そのルールの存在理由、あるいは目的がなんとなくネガティブというもので、具体的には学校の “校則” なんかを思い浮かべてもらえるといい。「髪は染めちゃいけません」「スマホは持ってきちゃいけません」「帰り道にお菓子を食べちゃいけません」、などなど。目立つのは「~してはいけない」という “禁止” の文言だ。まぁ、ルールが禁止の形式を取るのは当然とはいえ、ここではそのルールが成り立った背景を考える。学校では、規範的な人間を育てることに苦心するため、そこから少しでも逸れようとする行為を片っ端から禁止する。髪は「黒くなきゃいけない」から「染めちゃいけない」わけで、そこには救いも逃げ道も工夫の余地もない。「ネガティブなルール」とはこのように、ただ可能性を狭めるだけの、マイナス志向のルールである。

これに対して「ポジティブなルール」というのもある。ただ、そこはルール、「~してはいけない」という形式は変わらないのだが、今問題にしているのは目的だ。いちばん分かりやすいのがスポーツ。例えばサッカーのルールと言えばなんだろうか。もちろん、「手を使ってはいけない」だろう。これもやはり「サッカーという競技では足を使わなければいけない」という規範意識から来ているのは違いないのだが、目的の向いているベクトルがまるで違う。つまり、「足だけでどれだけのことができるか」という可能性が、「手を使わない」というルールによって活性化されているのだ。このように、同じ “禁止” でも、ただただ可能性が減退する類のものもあれば、一定の決まりや枠を作ることで様々な可能性を促進するものもある。後者こそ、われわれが「ポジティブなルール」と呼びたいものだ。

さて、文法の話に戻ろう。なぜ回り道をして「ルール」の話をしたか。「文法はポジティブなルールだ!」なんて呑気なことを言うつもりではもちろんない。僕が言いたいのは、「ルール」にはネガティブな側面もポジティブな側面もあって、だから「言葉のルール」であるところの「文法」もアンニュイでアンビバレントであるということだ。確かに、漢字がいくつも並んだ文法用語を見るとめまいがするし、SVO だの SVC だの言われてもピンと来ないし無機質な感じを受けるだろう。でも、仮に文法にも「ネガティブなルール」的な側面があることを認めるとしても、いちばん深いところにはポジティブな動機が眠っている。それは何かを「伝えたい」という素朴な思いだ。

それでもやっぱりめんどくさい、やりたくない。「文法」なんて難しいこと言わずに外国語を喋れるようになりたい。とお考えのあなた、まったく考えが甘い!と喝を入れたいのは山々なのですが、わかります。お気持ちお察しします。僕もみんなと一緒です。ルールがようわからんくてもビリヤードとか楽しみたいし、出来ることなら楽譜なんて気にせずに気持ちよくピアノも弾きたい…。たいして本腰入れてやってるわけでもない、趣味の端っこみたいなものはやっぱりテキトーに済ませたくなるよね。わかるわかる。

ただ。僕は粘ります。世に幾多のルールあれど、「文法」は少し特別です。確かにビリヤードにも小難しいルールがあるし、楽譜にも様々な意味が宿っていて、そこでの「ルール違反」はもちろん避けるべきことです。しかし、ビリヤード選手でもなく、ピアノ奏者でもなければ、毎日その危険があるわけではない。つまりほんの趣味程度なら、それに触れていない時間は “安全地帯” ということです。ところが文法は、繰り返しますが、「言葉のルール」です。言葉は毎日使います。ビリヤード台もピアノもないところにも言葉は溢れています。つまり、言葉のルールが守れない、文法がわからないということは、毎日が「ルール違反」の危険と隣り合わせ…ということになるのです。

「いやいや、別に毎日外国語を使うわけでもないし…」とお考えのあなた、今度こそ、考えが甘いかもしれません。たとえ毎日使うわけではないとしても、ほんの少し齧って旅行会話だけ楽しみたいだけなのだとしても、決して文法を軽視してはいけない理由が他にあるのです。それは、外国語を使う場面には常に「相手がいる」ということです。言葉は誰かと繋がるためのものであり、あなたの中で完結するものではありません。毎日使うくらいの姿勢で勉強して初めて、本当の意味で相手に「伝わる」のではないですか?


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と、なぜか最後は説教じみてしまったが、文法の大切さを説くことに身を砕いているのは僕だけではない。僕の尊敬する黒田龍之助先生も、著書『寄り道ふらふら外国語』(2014年) の中でこんなことを書いている。 

文法ってやつは…  文法の話である。自分で決めたテーマなのに、どうも気が重い。だが、それでも取り上げなければならない。語学教師として、文法の大切さを説くことは使命である。ミッションを遂行せねば!

僕と同じようなことを言っている。

とはいえ、わたしは最近、このミッションにいささか疲れている。
これまで長年にわたって、文法を擁護してきた。文法は大切ですよ、文法があるからことばが通じるのですよ、文法のおかげで表現ができるのですよ、などなど。
ところが、これがなかなか分かってもらえないのである。

この悩みも僕と一緒。だが、さすがは黒田先生、文法嫌いのために文法にとらわれない勉強法(ひたすら使えそうな例文を覚えてしまう等)の話をした後で、章の終わりには巧妙なレトリックで文法忌避組を論破している。

えっ、わたしですか。わたしだったら文法のほうを選びますね。だって、わたしは怠け者で、たくさんの例文を暗記するより、違いだけをまとめた文法を覚えるほうが、ずっとラクですから。
ということで、もしみなさんがわたしのような怠け者でしたら、文法の学習をお薦めします。


さて、これだけ熱弁を奮ったし、黒田先生にまでご登場いただいたので、もう僕の前で「文法なんてどうでもいい」と言う人はいないと願いたいのだが、これで終わりではない。依然、文法は難しいままだ。なぜ文法は難しいのだろう?こんな根も葉もないことを問うて何になるのか、とは思うけれど、これが意外と大事。確かに、難しい文法を簡単にすることは、どこかの国の大統領か王様にでもなって、権力を行使した言語統制でもしない限り難しい。ただ、「必要以上に難しいと思われている文法」についてはどうか?本当はそれほど難しくないのに、何かが間違って、難しい難しいと勘違いされていることも、意外と多くあるのではないのだろうか。

そして僕は、その原因の多くが「文法用語」にあると思っている。名詞、形容詞、述語、目的語、関係代名詞…誰もがどこかで聞いたことのあるこれらの文法用語、意外とちゃんとわかっている人は多くない。だからここで、もう一度基本的なところから、文法用語について見直したいと思う。ただ、もう一度言うけれど、僕は文法学者ではない。学術的な厳密さよりも、一般的なわかりやすさ、イメージのしやすさを優先したいので理解されたい。

蛇足だが、このシリーズのタイトルを「言語学する文法」にした。これは「哲学する」「数学する」など、既に動詞としての存在感を顕にしている "~学" の仲間に言語学も入れてあげたいという、僕の勝手な老婆心である。それじゃ、僕は文法学者じゃないけど言語学者なのだろうか。大学で研究しているわけではないという意味では答えは "否" だが、日々「言語学している」身としては、そう言えなくもないかもしれない。

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