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歴史探究-2・太平天国

歴史探究-2・太平天国
大上 肇(おおかみ はじめ)

これは YouTube と連動した記事です。歴史探究-1・アヘン戦争 につづく記事です。
 序文
 アヘン戦争を見ていただいた後は太平天国です。何か時間が飛んでしまったように思われるかも知れませんが、そうではありません。アヘン戦争の衝撃は大きく、また欧米の軍事的な圧力も衰えていません。今回の太平天国は第三次アヘン戦争と呼んで良いような面をもっています。この関連は日清戦争のニュースを聞いて清朝は終わりだと感じた孫文が興中会をつくるのと似ています。さて覗いてみましょう。

(1)今回の問いは、 キリスト教の太平天国を、なぜキリスト教の英仏米は攻撃したのか?

 太平天国はキリスト教信仰を元にして理想国家をつくろうとした政治運動です。よりどころにした聖書は欧米の聖書と同じものでした。完全に同一ではなかったものの、欧米人は太平天国の聖書、礼拝、慣習を見てビックリするくらい同じでした。それがなぜ欧米勢力は攻撃の対象としたのでしようか? これからの映像を見て、きみの判断をしてください。

(2)太平天国の起源
 ─1
 洪秀全(本名は洪火秀)の蜂起の理由・背景
 前回の「アヘン戦争」では十分説明できなかったものに三元里の平英団事件があります。広東の北に三元里(広東市から北3km、現・広東市白雲区)という村があり、そこにイギリス軍が襲撃してきて、強盗・強かん・破壊をおこないました。それに対して三元里の周辺の村々103ヶ村が結束して「平英団」結成します。この自警団は鎌・犁・大刀を持って集まり、イギリス軍のマスケット銃と戦いました。鎮圧する側の清朝八旗軍は略奪に専念する腐敗した軍隊でしたが、多くの村民が戦死しました。これはアヘン戦争最中のできごとで、漢人からすればイギリス排除だけでなく支配者の満州人も追放したい相手でした。アヘン戦争は単純に英中間だけの戦いではありません。
 ─2
 太平天国の指導者・洪秀全(本名は洪火秀)が産まれた花県(現・広東市花都区)は、広東より北へ約30kmのところにあります。
 洪の家は客家(はっか)です。客家とは、「客民」ともいい、日本風には「よそ者」「移住民」です。この客家のひとたちは元々は中原(洛陽周辺)にいた人々で、自らを「本地人」と呼んで、真の漢人はわたしたちだ、という誇りをもっていました。それが長い歴史の下で、内戦があり、北方人の襲来があり、南渡せざるをえなくなったひとたちです。南渡しても、独自の文化をもち、中国南部の文化に完全に溶け込むことはなく、「正統なる漢人の末裔(まつえい)である」とおもっていても、身を寄せた先では「よそ者」で、辺境の下層民を構成することになりました。太平天国に参加したひとたちはこの客家のひとたちが多かった。客家出身の有名人としては孫文や朱徳、鄧小平たちがいます。
 李秀成(秀全の親族)の証言
 客家の生活の苦しさは一日を過ごすのも困難な程で、一カ月をやりくりするのはさらに難しく、山を耕し、人に雇われて飯にありついた。26,7歳のとき、洪先生(洪秀全のこと)が上帝を敬うよう人に教えているのを知った。上帝を拝んだ後は、いささかも教えを破ることはせず、ひたすら信じた。
 ─3 科挙失敗
 科挙に4回挑戦します。最終試験の殿試までに12回もパスしなければ官僚になれません。まず16歳(1829年)、23歳(1835年)、24歳(1836年)の年の受験はことごと失敗し、3度目の失敗に意気消沈した火秀はそのまま病に倒れ、40日かんも寝てしました。もはや口を利くこともなくなった洪を見て、親族たちは、火秀が死ぬかもしれないとおもいました。(31歳 1843年)
 3回目の試験のさい、彼の名は榜(たてふだ)の上位に記されていたのに、後から下位にさげられた。このことは、試験官のあんまりな不正と不公平とともに、彼に打撃を与えたので、家に帰るや重い病気になった。
 ─4 洪秀全の夢
 その間、火秀は奇妙な夢を見ます。 
 (a)最初、目を閉じたときがやがやと騒がしく、人の声で喧しかった。一頭の竜と一頭の虎と一羽の牡鶏(おんどり)が自分の部屋にはいって来るのが見えた。程なくして多くの人が大勢の人が楽器を奏でながら近づいてきた。身に黄色の長衣を着た童子(天使)を伴っていて、やって来た人々は美麗な大きな輿を担いでいた。そして、かれにお乗りくださいという。洪が乗ると、輿は担ぎ上げられ、洪はいろいろな従者たちに伴われて東のほうに運ばれた。
 (b)一行はまもなく美しく照りかがやいた場所に着いた。両側には立派な男女がたくさん集まっていて、歓喜を顔に表わして彼に敬礼した。輿から下りると、輿から下りると、一人の老婆(母?)が河辺につれてゆき、『そなたは、汚れておりまする。なぜ、向うの者といっしょにおわして御身を汚されたのか。さあ、洗い浄めて進ぜましょう』と言った。みそぎが終ると、かれの腹の中の穢れた心臓肝臓など、五臓を取り出して新鮮で紅い新しい臓器に取り替えてくれただけだった。傷口はすぐに縫合され、少しも傷痕は残らなかった。
 (c)一人の女性がやって来て、かれと顔を会わせた。この女はかれを「児よ」と呼び、自分をかれの母だといったからだ。かの女はかれに「お前は凡界で身体が穢くなって川の中で洗わせておくれ。それからお前のお父さんに会いに行きなさい」といった。
 (d)洪は、宮殿に連れて行かれ、かれの父(エホバ)が背が高く、身体が大きく、手を膝のところに置いてどっしりと最高の宝座に座しているのを見た。いちばん高い所に、金色の髯をはやした高齢の老人が、黒い長抱を着て厳然と坐していた。唇はほとんど見えなかった。洪は這うようにしてひれ伏してかれを拝した。その後、きわめて恭しくその傍らに立った。かれは洪を見ると秀全を見るなり、はらはらと落涙して言った。
 (e) 洪は、宮殿に連れて行かれ、かれの父エホバが王座に座しているのを見た。金色のひげをはやしていて、唇はほ見えないくらいだった。洪はひれ伏してかれを拝した。父は洪を見るなり、はらはらと涙を落として言った。
 お前は戻ってきたのか? よくわたしの言うことを聞け。全世界の全人類はみなわたしの生むところ、わたしの養うところのものだ。しかし誰一人としてわたしを尊敬するものはおらん。むしろわたしが与えた品物でもって妖魔を礼拝している。わたしがどんなに怒りどんなに哀れみを抱いているか知らないのだ。
 (f)洪はこの悲惨な情景に怒りがやまず、父に向って聞いた。「父上、かれらがこのように悪いことをしているのに、貴方はどうしてかれらをやっつけないのですか?」。父は、「わたしは待っているのだ。かれらにもうひとしきり悪事をなさせて置くのだ。かれらはわたしの懲罰から逃げられるはずはない」という。父は、「もしお前が妖魔は容認することができないと思うなら、それなら、お前はあるいはなにかやることができるかもしれん」と答えた。
 (g)洪が、かれはふたたび父に言って「戦うことを許可してください」と求めた。かれの戦闘を助けるために、父はかれに二つのものをあたえた。―つの金印と、「雲中雪」という宝剣一振りだった。「悪魔を絶滅せよ。勇気を起こして、その仕事をやってゆけ。困難の場合は、必ず助けてやろう」と命じた。そこで洪はこの金印と宝剣を持って父にかわって戦に出かけていった。それからしばらくして、そこに集まっている徳高く身分尊き老人たちに向かって『秀全はこの任に堪える者だ』と言った。
 (h)かれが俗世に戻る前に、父はまた言った。父は、「「洪火秀」の「火」の字の代わりに、「全」の字を用いるよう」に命じた。「火」は祖先の名前と重なるので改めよ、と。
 幻想の中で彼はしばしば中年の男にあった。彼はその男を兄と呼んだ。男は彼にどう行動すべきか教え、彼に同行して放浪の旅に出、悪霊をもとめて地の涯てに至り、彼に力を貸して悪霊らを斬り殺し激滅した。秀全は、また、黒い長抱をまとった、やんごとない老人が孔子を叱責するのを聞いた。孔子が経書に真の教義をはっきり解釈することを怠ったというのであった。孔子は大いに恥じいったふうで、自分の過失を認めた。
 (i)妖魔は大いに暴れまわって天界にまで侵入してきた。かれは宝剣を振るって戦い、かれの兄(イエス)は洪の後ろに立って手に金印を捧げ持っていた。その金印は光を発し、妖魔の眼を眩ませ、あわてて退散させた。洪が腕が疲れて手と肘の痛みで戦いを休んでいると、天女たちがその周りを囲んでかれを護り、黄色の果物を与えて体力を回復させてくれた。休んだ後、かれと兄はまた肩を並べてふたたび戦い始めた。
 そのとき彼は昏睡から醒めたが、まだ夢心地から抜けず、頭髪が逆立つのを感じて、突然、激しい怒りに駆られて、身体の衰弱も忘れ、着物を着て病室を出、父の前にゆき、深く一礼して言った。「天上の尊き老人が、一切の衆生は私に帰依せよ、一切の財宝は私のもとに流れよと命令なさいました」と。
 また彼は自分は正当に中国皇帝に任命されたのだとよく語った。そして人からその名で呼ばれると上機嫌であった。だが、気違いと呼ばれると、その人を笑いながら、次のように答えるのが常であった。「まったく、そういうあなたこそ気違いだ。そのくせ私を気違いと呼ぶのか」
 品行の悪い人が彼に会いに来たときは、よく彼らを叱罵して妖鬼と呼んだ。一日じゅう、全くむきになって、交互に、歌ったり、涙を流したり、人に勧告したり、人を叱責したりするのを常とした」

 夢の父の言われたように名前を変えた洪秀全は病が癒えてから受験の準備をはじめた。その間、かれの友人がかつて洪火秀がアメリカ人の宣教師からもらったパンフ『勧世良言』(かんぜいりょうげん)』を借りていき、返すさいに、これを読んでみるようにと強く勧めた。読んでいなかった洪はかれのいうことに従って読んでみた(1836年)。そこには、悪の源と善の意味に集中的に焦点を当てていた。その争いと混乱は、直近のアヘン戦争・三元里の乱と酷似していた。イエスは神の子で、また洪の兄であるのだから、それなら、洪秀全は事実上、神の中国における息子にほかならない。夢と現実が動き出す。
 4回目の試験(1843年)を受けたら、またダメだった。この後に、友人が読め読めと勧めたので読んでみた。本を読んで、洪秀全は腑に落ちた。最近の中国の戦争・混乱と、それに対応すべきことが一致している。高い座に坐した黄金髭の老人は、天の父なる神であり、また、自分に刀と印璽をわたしてくれた中年の男こそ救世主イエスである。秀全は、長い、長い夢からさめたように感じた。孔子の像を撤去すべきだ。洪秀全は、布教を始めます。

 この夢の話は、詳しくは、リンドレー『太平天国(『Ti-Ping Tien-Kwoh:The History of The Ti-Ping Revolution』)』東洋文庫(増井経夫訳)とジョナサン •D・スペンス著God's Chinese Son『神の子 洪秀全』鷹應義塾大学出版会(藤公彦訳)
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(3) 太平天国のキリスト教とはどんなものだったか、どの部分が英仏米に嫌われたのか?

 (a) 天父は「父なる神・エホバ」、天兄はイエス「子なる神」とするのは、「兄」を別にすれば、キリスト教正統派の教義と同じ。天父は万物の創造者であり、天兄は人類のために犠牲者として十字架にかかった救世主である、という点も同じ。
 天父は宇宙の唯一神であり、その他のものを礼拝することは偶像崇拝であり、儒教の孔子を拝むのも偶像崇拝であり、厳禁である、というのも同じ。
 (b) イエスは結婚していて、5人の子供(男が3人、女が2人)がいる、男子は18歳、15歳、13歳、女子は16歳、11歳。これは聖書にない説です。中国化したキリスト教とも言えます。
 (c) 地上の天国は「小天堂」といい、そこでは信徒の家族は喜びに満ちた平和な生活が送れるようになる、という。死ねば天父の住む「大天堂(本当の天国)」に昇ることができる。
(d)天京(てんきん)を都としてから「天朝田畝(てんちょうでんぽ)制度」を発布して、国家は天父に見守られた大きな一家であり、すべての土地は共同で耕し、すべての食物、すべての衣服、すべての金銭も共有の財産として、男女・長幼・貧富の別なく、すべての国民に平等に与えられる、とした。分配は、家庭人口に応じて行なわれた。
 (e) 常にヨーロッパ人を「洋兄弟」(海を渡って来た同胞)として歓迎し、ともに「耶蘇(イエス)」を崇拝する者同志という意味をこめた。できるだけ衝突・戦争を避け、公認された貿易港への攻撃を控えた。周辺での戦闘にも外交交渉を重ねて、対立しないようにした。
 (f) アヘン吸飲を信徒に厳禁し、吸飲したら死刑とした。「汚らわしい毒薬は、ただ人を汚すだけです、家屋を臭くし、衣服を臭くし、身体を臭くし、魂を臭くし、やがて人間を地獄の中へ導く」と非難した。
 (g)洪仁玕(こうじんかん)の近代化プラン
 洪秀全の若い親族の一人。香港で滞在したから西欧文明に触れ、改革案『資政新篇』(1860年)を出版した。そこには、通商の自由、銀行の設立や鉄道、汽船航路、幹線道路などのインフラ整備、鉱山開発、特許制度、科挙の八股文否定、政治の中央集権化、貧者の救済や教育など、資政新編(しせいしんぺん)として改革案が発表されます(1859年)。これらは清朝の洋務運動や日本の明治維新に先立つ近代化プランでした。

  
 英仏米が嫌ったのは、(f)が第一です。アヘン貿易の利益は大きく、またこの反乱の最中にアロー戦争がおき、太平天国は二つの条約(天津・北京条約)を認めなかったため、それでは、賠償金を課した清朝政府からの収入も取れない。つまり太平天国との戦いは第三次アヘン戦争であったのです。キリスト教は無関係でした。

 (a)(b)の内容も、少し正統派とは違いますが、民族ごとに特化した変形は、どの宗教にもみられることで、一部の宣教師はそのために邪教と非難していましたが、戦争を遂行する政府側にとっては大きな問題ではありませんでした。
 (b)の儒教・孔子の否定は清朝にとっては問題でも、英仏米にとってはどうでもいいことでした。同じように清朝にとっては(d)は地主の否定になるので嫌なことですが、これも英仏米に無関係です。
 同時期、イギリスの外交官でアモイ駐在領事レイ氏は、アヘンについて「中国民を片輪にしつつあります」と非難していた。しかし、太平天国の乱の最中に、英仏はアロー戦争をおこし、天津・北京条約でアヘンを「洋薬」として認めさせ、利益を増大させることに成功した。太平天国のアヘン吸飲の廃止こそ、イギリス政府とこの薬品を取引きする商人のほとんど全部にとって太平天国を敵対視してきた主な原因としてよい。
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(4) 太平天国の進路・支配地図・天京の攻防戦
 花県から金田村に行き、ここで太平天国の旗揚げをしました。周辺の客家たちの支持を母体に兵士は増加し、北上して華中の支配地域を獲得しましたが、清朝の反撃します。南京を占領して、ここを都として てんきん と名づけます。太平軍兵士には鉱山を爆破する技術をもつ工兵がいて、清朝も苦戦します。もし欧米軍が清朝を援助しなかったら滅亡する可能性もありました。さらに北京や長安をねらって北上しましたが、これは成功しませんでした。欧米軍の大砲に負けていきます。
 
 欧米人の清朝支援
(a)ウォード
ウォード(William Townsend Ward)はこの動乱が金儲けになると踏んで太平天国に接近し、王侯の爵位を得た。だが、上海の民衆が太平軍を忌み嫌っている様を見て心を変え、翌年、一転して清軍援護の部隊を組織した。「洋槍隊」という名で発足、中国人4〜5000人を徴兵した。

(b)ゴードン
 イギリスはゴードンをやって常勝軍で南京攻撃させました。ゴードンは、沈着と戦略とを備えていた。太平軍に火砲のないことを見抜いての襲撃、太倉の緒戦で太平軍を斃すこと2000、常勝軍の被害200、嵐山の戦では太平軍3000を屠り常勝軍の死者2だった。
 ゴードンが清朝の賞金を辞退したことがあったが、清廉のためではなくその額が少なかったためであった。
 ゴードン将軍は、官軍側から毎月1200両もらい、またイギリス陸軍将校として休職給も受けていました。
 彼の戦略は、射程距離の長い大砲をもって遠くから太平軍を破壊することであった。太平軍はまったく大砲を持っていなかったから。
 ゴルドンは……濠のこちら側から破れロヘ散弾をあびせ、マスケット銃の猛烈な射撃をつづけました。
 嵐山撤退時と途中逃走する間の太平軍側の損失は3000名を下らないと見積られている。ゴードン軍の損害は死者2人、溺死者5人であった。
 ゴードン軍は近代的武器と火力の点で、刀や竹槍・火縄銃を主な武器とする太平軍より比較にならぬほど優位に立っていた。これでは、「常勝軍」といわれたのも当然であろう。
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(5) 太平天国の影響
 (a)アロー戦争(1856〜60)
 太平天国と同時期に進行した英仏と清朝の戦争。第二次アヘン戦争ともいうように、英仏は貿易利権拡大のためにしかけた戦争。
 発端はアロー号事件といい、英国国旗をかかげるアロー号を清国官憲が臨検し、中国人船員を海賊容疑で逮捕したことから、英国の領域を侵したとして始まった。しかし問題の船はすでに英国船籍を離れいたが、英国国旗をかかげていた、として強引に戦争に持ち込んだ。
 フランスは自国の宣教師が殺された、として加わり、アメリカ人は傭兵として英仏軍とともに戦った。
 
 結果、清朝は敗戦し、天津条約(1858年)・北京条約(1860年)で、アヘン(洋薬)とキリスト教布教を公認、内地旅行権・10港開港、外交官北京駐在を認めた。
 ところが清軍が批准(最終承認)書の交換を武力で阻止したため、戦争再開(1859年)となり、かつてカスティリオーネ(郎世寧)が設計した円明園は、英仏軍が略奪・破壊して終わった。北京条約(1862年)で、天津加え11港開港を開き、香港島の北にある九竜半島の一部を割譲した。
中国人の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認も行なわれた。
 英仏は太平天国とこれらの条約承認を交渉したが拒絶された。英仏の本国は太平天国にたいしては中立の立場であったが、この拒絶から弾圧の姿勢に転向した。 
 
(b)洋務運動
 1860年代の太平軍の上海への脅威は外国の傭兵軍の組織化を促した。洋槍隊は、1862年3月から「常勝軍」と改名し、イギリス人将校のゴードンが部隊を引き継いで太平軍と対抗した。命中度の高いライフル銃と遠くに飛ぶ大砲を装備していた。この軍は刀や竹槍を主な武器とするので、それを超える武器の開発(洋務運動)が急がれることになります。
 そのため兵器工場・造船所をつくり同文館という翻訳と欧米学問を学ぶ学問所と欧米との外交事務の役所たる総理各国事務衙門を設けます。

太平天国の影響
(c)高杉晋作
 文久2年(1862年)には藩命で、長崎から中国(清)の上海へ渡航する(1862年)。上海で高杉晋が見たものは、外国人におびえる卑屈な中国人の姿でした。清朝を倒そうとする太平天国を見て、民衆の力を土台にした新しい軍隊「奇兵隊」を創ります。
 高杉晋作『遊清五録』の原文。
 小銃の声陸上に轟(とどろ)く。皆云はく、是れ長毛賊と支那人と戦ふ音なるべし。…五月二十一日、つらつら上海の形勢を観(み)るに、支那人は尽く外国人の便役(べんえき)と為れり。英、仏の人街市を歩行すれば、清人皆傍(かたわら)に避けて道を譲る。実に上海の地は支那に属すると雖(いえど)も、英仏の属地と謂ふも、又可なり。

(d)福沢諭吉
 太平天国に関しても、「長毛賊〔=太平天国徒]…….いわゆる頑固者流にして.……(福沢諭吉全集⑤215)「長髪の賊、勢いますます盛強にして……もとより烏合の衆」(全集⑲11)と、福沢は、下からわき上がる人民の変革力を理解することができない。

 原文・全集⑤
 賊は固より大明の名義を唱へて今の政府に敵すると雖ども、所謂頑固者流にして、外國人を忌むこと甚しく、之と事を謀らざりしが為に失敗したる者なり。若しも然らずして、此賊党が耶蘇宗敦の党派にして、人の精神を結合し之に附するに大明恢復の名義を以てして、宗教の精紳と政治上の利害とを密着せしめて、以て外援を求めたらんには、外人の之に應ずるは必然の勢にして、北京政府をば早く既に顧覆したることならん。但し之を転覆したるのみにして、爾後支那國の全権は長く長毛賊の手に在らずして、其國民は却て外國の制御を蒙ることならん。想像論の一例として見る可きものなり。

 全集⑲西航記
 (文久二年[1862年]幕府の遣欧使節に随行して、品川を出航してヨーロッパ諸國を巡遊したときの日記)
 長髪賊は進て上海に至り、兵一萬を以て之を囲めり。土人皆恐怖して家を捨て英佛の軍艦に遁れり。然れども賊兵亦た英佛の宿兵には敢て害を加へず。
 長髪賊諸州を侵掠し、男子の兵卒となすべき者を捕れば其面に烙印し、再び蹄ることを得せしめず、官軍も亦面に烙印ある者を見れば捕て之を殺す。此を以て人々皆生を安んぜず、産業を修る意なし。嘗今上海等の交易
甚盛ならず、輸出物も昔日の半に至らずと云。○長髪の賊頭朱天徳は既に死し、嘗今の元帥は洪秀全と云、自
から天皇と稱せり。其鴬類も人員は多しと雖ども、固より烏合の衆にして、用兵の法を知るものなし。故に英佛の軍卒、法を犯して罪あるものは、出奔して長髪に帰す。賊も亦喜て之を納れ、俸を厚くし、或は五十人百人の長となし、或は一隊の将となして之を用ると云。

 林則徐を知恵なしの短気者、太平天国は頑固者、と福沢にとっては、中国人は誰でも蔑視すべき人たちらしい。英国に対抗し、清朝を打倒しようとする者たちがなぜ頑固者なのか、理解に苦しむ言辞です。彼は下からわき上がる人民の変革力を理解することができない。
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 なぜヘイトクライムや戦争に走るのか?
 無知と偏見が何よりの原因です。ヘイトクライム(犯罪)に走るのはもともと偏見や蔑視観があって、それがクライムに発展します。
 『太平天国(『Ti-Ping Tien-Kwoh:The History of The Ti-Ping Revolution』)』(増井経夫訳)の著者で、太平天国の傭兵となった英国人リンドレー(Augustus Frederick Lindley)は、次のように告白しています。

「私は個人的に太平天国軍を知るまで、中傷者の伝える話に迷わされていた。かれらは「盗賊団」「血に飢えた掠奪者」「土匪」「悪党」とか言われている連中だった」……しかし中に入ってみると、「ここでは一人の乞食も見当たらなかった。村外は、畑が収穫時で、豊穣な作物を取入れ中の労働者で活気にあふれていた。外国人に対する彼らの著しい親善ぶり……彼らの真剣な宗教的情熱、愛国心、そして概して高貴な心情など、すべては私の心に深く刻みこまれた。」と。
 「これらの人々にわが国がとってきた態度はどうか、私はそれを思い出すたびに、自分がイギリス人であることが恥かしくて顔が赤らむのである」と。なぜ宣教師は誰も、太平天国を見に来ないのか、と嘆いています。 

 リンドレーの後に、次第に入ってくる宣教師もいたのですが、太平天国の実際のすがたとその理想に感動したのですが、その報告は広まりませんでした。
………………………………………
 無知・偏見がヘイトクライムを生む事例はたくさんあります。
(a)福田村事件
 1923年の関東大震災の直後、朝鮮人虐殺が相次ぐなか、日本人が日本人を86人殺害しました。その一つが、千葉県福田村(現野田市)の市民が香川県から来た薬売りの行商の9人(妊婦のおなかにいた胎児を含めると10人)を竹槍・猟銃・サーベル・とび口で殺した。原因は、村人の聞き慣れない讃岐(さぬき)弁で話していたことから朝鮮人に疑われたため。福田村以外では、沖縄のひと、言語障害者なども。

(b)ヨーロッパ新世紀
 ルーマニアのトランシルヴァニアの町にパン工場があり、人手不足からスリランカからパン職人を3人雇った。ところが町民の集会で町民が「イスラム教徒の触ったものなんか、食べれるか、あいつらはすぐ繁殖する、いずれテロを行なう、町から追い出せ」と次々と発言。工場長と同じ工場ではたらくひとたちが「イスラム教徒ではない、真面目に働いている」と反論しても聞かない。多数決で追放を決める。これは2020年にあった実話。スリランカ人は仏教徒。

(c)ウトロ放火事件(2021)
 京都府宇治市の在日コリアンが暮らすウトロ地区でおきた放火事件(2021年8月30日)。犯人は、奈良県桜井市高田に住むA(22歳)で、すでに名古屋の韓国民団本部や韓国学校に放火した罪を犯していた。ウトロ地区は、韓国政府の出資や寄付などで一部の土地を買い取り、2棟の市営住宅が建てられることで問題は決着(2007年)しているにもかかわらず、「不法占拠」と信じ、裁判所でそのことを否定されても、偽説を曲げることはなかった。犯人は、ネットに影響されたと証言し、韓国・朝鮮系の人たちと直接関わったことは、これまでなかったという。犯人は、被告となって裁判で在日コリアンと初めて向き会うことになった。懲役4年の判決がでたが「後悔はない」と言っている。こういう人は「ネット病人/ネット廃人/ネット痴人」と呼ぶことにします。
 終身刑が科せる「コリアン虐待防止法」が必要です。
………………………………………
終章の詩…………………
太平天国の兵士たちよ。
孔子を否定し、
纒足と辮髪を否定し、
男尊女卑を否定し、
大土地所有を否定し、
周辺国蔑視を否定し、
自由と平等を求めた兵士たちよ。
きみたちの願いは叶わなかった。
2000万の屍が横たわった。
しかし、しかし。
熱い願いは死んでいない。
孫文の中華民国は混乱し、
毛沢東の改革は破綻し、
天安門の声は戦車がつぶし、
香港の雨傘は警棒が破った。
自由と平等を、それでも、
阿Qは、あきらめない!

Note にもっと詳しい文字データを載せています。→
次回は、江華島事件です。

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