윤슬のためのエチュード
「水面に映る光は湖の光」ということばを3年前にふと思いついて、そのときからずっと”そこ”にいくことを夢にしている。
"その場所に地面があるのか、
空があるのか、光が届くのかは
分からない、見当もつかないけど
僕はそこに行きたいし、
そこに行くための人生なのだ
と感じている
そのことで頭をいっぱいに
している"
-2020/12/29の手記より
すべての素材は僕がそこにいくための道具であり、足なのだろうと思う。
それから、そこに辿りつくことは決してないと感じる。こんにちまで、そこへの標識はずっと出っぱなしだからだ。(標識がでない場合は2つある。そこまでの距離が自分と全く関係ないほどに遠いか、或いはすでにそこにいるか、だ。)
僕のつくるものは僕にしかわからないかもしれない
僕のための道具なのだから
でも、ほかの人の心から眼差すと、僕のこのむつかしさは、鏡として、映し出されるのかもしれない
-同じく、2020/12/29の手記より
生活利器「実寸」さんのページにはこんなことが書かれてある。
”いつの時も、人々はそれぞれの場所に生き、一人の人間が直面するのは無数の例外のうちの一つでしかない。人はそれぞれ異なる習慣を持ち、それはその人の中でも言葉でうまく表現できないようなものかもしれない。今ここでそういった襞を精密に辿り、「実寸」のスケールで生きて行くこと。そのために必要な習慣、道具、システム、空間。それらのものを今あらためて「生活利器」と呼ぼう。”
もちろん僕の夢のための道具は生活のための道具ではない。けれど、直面するなにかのための道具という点でみれば、僕もおなじことをしているのかもしれない。
ところで、どのようにして標識がでるかといえば、人と出会ったときにほわほわと出る。人と会い、若しくは別れ、憶えるほどに標識は色濃く出続ける。
僕はたぶん、着の身一つでは生きていけないし、なにかを介し翻訳しないとあの場所へは行けない。あの場所へ行くには、あらゆる方法を用いらなければいけないのだ。
”土はすなおなので
すなおが伝播すると
僕は思っている
それから、僕はある場所へ
行くために、目に見えない
形で歩を進めるのだと思う
その道しるべとしてのパン
あるいは墓標として
土を使っているのだと思う”
-またしても、2020/12/29の手記より
人と出会ったことはなかなか忘れるものじゃない。ひとつ一つを道標として、あるいは鏡として、1万年後のひとにも届くといいなと思う。
そのときは「訳のわからない道具」として知られるだろう。でも、分かってくれる人もいると信じている。
他者とはそういうものなので、それでいいと思う。
「カンヴァスに油彩」のようなタブローは、ぼくには作れない。僕がずっと”そこ”に辿り着けないように。そういう意味で、僕はずっと、完成した作品を作ることはできないように思える。
そして、それはいまの自分にとってぴたりと、うれしく嵌っているように思う。
윤슬(ユンスル)とは、「日光や月の光に照らされてキラキラと輝く小波」という韓国語。僕の標識が出続けているあいだは、ずっと윤슬のためのエチュードを作り続けるのだろう。
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