療養に、療養として

極めて状態が悪い。何がどう悪いのか、それもわからない。
ここ数週間の焦燥感からくる過活動が決して良いものでないことは気付いていたが、どうしようもなかった。いつもそれが全うであり、且つその正しさは疑いようがなく、寧ろあるべき姿であるというぐらいの思いでやっている。
しかし数日前、その時もある技術について調べていた。僕にとって新しい分野だったのでどこから手を付けていいのかわからず、関連分野全てを網羅しなければならないとふと思った。その「ふと」は僕が二度と陥りたくないところへの、その入り口と全く同じ形をしていた。

余裕が無い。
目の前の物を片付けたら少しは楽になるかと思ったが、そもそも消えてなくなる訳がなく。本当に必要なのは、目の前に何があってもそれをごく平凡な日常の一つとして受け止められる、そんな余裕である。
大きな病を得る前、IT屋であり仕事の時以外は本を読み討論会などにも参加してた哲学徒でもあった。この奇妙な取り合わせは、実は非常に絶妙であった。現実的な問題と概念的な問題を等しく重要に感じさせ、また考えさせてくれた。
哲学も、文学も、芸術も、何恥じること無い、寧ろ崇高な逃避を与えてくれる。それらに没入しているときは元より、何かしらに悩める時も頭のほんの片隅、数%の部分で目の前に起こっていることとは全く異なった世界を作り出してくれるのである。日常を解毒してくれる世界。
人間には想像力が備わっている。それはつまり、人間には自由に連想されることを、その連想のままに思いめぐらすことができる時間と環境が必要だということだ。
何かしらを書く習慣は、僕の今の日常にこの余白を与えてくれるような気がしている。頭片隅でその日の終わりに何を綴るかを考えながら過ごす事が出来るような気がする。
まだ文章の密度が高い。健康度は文章の密度に反比例してくるのではと思っている。

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