完成されたもの/完成されていないもの

作品には二つ、完成されたものと、完成されていないもの、がある。
完成されたものはわかりやすい。僕がここでいうところの完成されたものとはほぼ文字通りである。
では完成されていないものとはどのようなものか。無論、作成途中のものを指しているわけでは無い。

余りライブというものに行ったことは無い、余程好きなバンドのライブ以外には。それより音源の方が昔から好きである。音源もリミックス盤は余り好きでは無い、あくまでオリジナルが好き。NON-STOP MIXなどは論外である。トークライブなどはトークという性質上、ある程度完成されているが、無軌道な話しは大抵完成とはほど遠い。それは面白さやクォリティとは別の問題である。
完成されていないものは刹那的である、それも美を伴わない刹那である。完成されていないものは非情に人間的なものであり、且つ情動的なものでもあるかもしれない。それにしか、そこにしかない唯一性こそ完成されていないものの魅力なのだろう、反復不可能といってもいい。誰にでも可能性は開かれている、だからこそ二度と起こらない、そのようなこと。
完成されたものは某か一つに纏まるのである。作者と呼ばれる存在があり、且つ一定のクオリティに達している作品には何かしらの目的なり意図なりがあり、何処かしらに収斂する。それがまさにその作品の実体とも思えるものである。即興的なものでも完成されたものはそれが作られた、行われた時間・空間、全てを含めてあたかもそれが元より合目的であったかのようなもの、そういうものが少なからず存在する。カントが言うように美は合目的なものであり、それが完成されたものの完成を裏打ちしているのかも知れない。
完成されたものは必ず何かしらを与えてくれる。完成されていないものからでも得る物は多々ある。しかし、完成されたものにしかない、そのものを形成している、形成するその過程までもの結実、美の形式をした、が鑑賞する者の奥底にまで到達する。
人間は無論完成とはほど遠い。だからこそ完成されたものに触れたいのである。そしてたまに、完成されたものに囲まれてもいたいと思う。

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