褒められた。でも分からない。

 自分の魅力は案外他人の方が分かっていると言われるが、その逆も然り。
他人からいくら事細かにあなたの魅力を伝えられても、あなた自身が「分からない」ということがある。
 「あなたの目、大きいね。いいと思う」と言われたとき、「わかる。大きいよね、ありがとう」と言えたらいいだろうが、あなたが自分の目を大きいと思っていない場合は、相手の発言を疑い、その裏にあるかもしれない意図を探し出すだろう。それでも一応お世辞を言うことはできるし、自分で他者の目を見て「やっぱり小さいじゃないか」と判断することはできる。こういった定量的なものであれば、自分が自分に与えていた認識が一瞬崩れたとしても、すぐに戻すことができる。しかし、「性格」「魅力」といった定量的でないものになると、自分で自分に与えていた認識と、他者から伝えられた認識と、そのズレを見つめなおすことは難しくなる。自分が不得意だと思っていたことが、実は得意だった(得意になっていた)のだとしたら、それは自分の武器だと認識して積極的に活用していくのがよいだろう。周りに自分がどう貢献するか、それを考えるヒントになるというわけだ。
 ただ、伝えられた認識が自分の想定と真逆だった場合、褒め言葉といえど、簡単に受け入れるのは難しい。鏡に映っている自分の姿と向き合っていながら、他人に間違い探しをされているようなものだからだ。もっといえば、それは自分からはとても見えない、背中に書かれているものだったりもするのだ。
 おそらく人には"「自分は○○だ」と思っていたい自分"がいる可能性が大いにあり、それが客観的な認識に靄をかけてしまう。さらに、そもそも「褒められることに慣れていない」ということが、客観的な認識を直視しにくくさせている可能性がある。ここでは詳述しないが、また機会があれば書こうと思う。
 先述したように、他人の方が案外自分の魅力を知ってくれているものだ。しかしそれを伝えられたところで、永遠に捉えられない可能性も十分にある。もし仮に長所なんだと一旦認めてみても、「自分がどうしてそういう長所のある人間になったのか」は分からず、自分にとってはせいぜい噂程度の信頼度しかない。そしてこの程度の認識は、いざという時に頼りにできない。結果、もしそれがあなたの持つ唯一の剣、あなたにしか振れない剣であったとしても、その剣は抜けないということになる。だが、もし自分の長所に自信が持てれば、迷いなく剣を抜き、より大きな困難に立ち向かうことができるはず。そうありたい。


 なんでこんなことを書いているのかというと、友人Mがこんなことを言ったからだ。

あゆは力があるのに使わないようにしている。もったいない。

友人M

 こうして書くと、なんだかすごい力のように聞こえてくる。しかし実際友人Mからすればそれは憧れるほどの力であるし、逆に僕からすれば、さっさと捨てたいと思っている錆びついたもの、というのもまた一つの事実なのだ。

 僕は近頃、友人Mのように、ありがたいことに周りの人々からとある認識を伝えられ、めちゃくちゃ貴重な剣を持っているのかもしれないと思っている。しかし、それを生かそうとも、その武器を鍛えようともしたことがこれまで一度もない。なんでかというと、他の人が持つ武器に憧れていて、自分の武器をまるで武器とも思っていないからだ。
 これに対し友人Mは、ぼくが他の人が持つ武器に憧れるばっかりで、本来の研鑽とはかけ離れてしまっているのではないかと指摘したし、あなたが持っている武器を活用して欲しいと言った。事実、創作の現場において、一個人が遠慮することは何のプラスにもならない。とある講師の言葉を借りれば「あなたが集団の中にいる意味がない」のだ。

じゃあ具体的に力って、なにか?
これも時間のある時に書こうと思います。
もしよかったらまた読みに来てください。
それでは。