イカゲーム

 私は断言できます。イカゲームは恋愛映画です。人生と社会の縮図どころか愛と恋のほとんど全てがぎゅっと詰め込まれていて見ていてしんどかったけどこれは現実に過ぎないんだ......と自分に言い聞かせながら見ていました。こんなに泣きながら見たシリーズものはヴァイオレット・エヴァーガーデン以来です。

 さて、そんなイカゲームだったのですが、それとは別に、表現し続けている、もしかしたらすなわち考え続けていると、ふとしたときに何かからヒントを見つけやすいという点で、表現する(アウトプット/ものをつくる)ことはとても楽しいということを改めて思いました。以下(イカ......)、ネタバレ含むある場面、ワンシーンを使って説明をするので、ネタバレ等に触れたくない方は読まないでください。













 さて、大丈夫ですか?
















大丈夫か?













ほんまか?








帰ってええんやで?










さて、








 最近の私の考えごとは、「私の声は私以外の他者に届くのか(他者の声は私に届くのか)」ということでした。

参考動画①「声の到達方法についての考察」

参考動画②「声の到達方法についての考察2」

 それでイカゲームを見ているときに私に引っかかったシーンが、主人公ギフンが






ネタバレはちょっとでも挟まるとおもろさ1ミリ減るからやめたがええで?















もう、ほんまにええんやな?









ほな、行きます。











 主人公ギフンがイカゲームから解放された際に、警察署に行き、イカゲームについての説明を必死するのですが、警察は全く相手にしてくれなかったシーン。

 うわ、おもろ〜って思った点が1つあって、それは、マジでギフンは真実しかしゃべってないという点。視聴者としてイカゲームを見てきた私にはギフンが全て真実しか喋っていない、むしろ忠実に喋っていることが分かる。だけどイカゲームを見ていない、知らない人(警察)からしてみれば、本当に作り話をしているようにしか見えない。おそろし〜って思った。主人公ギフンの声が警察に届いていない、私の声が私以外の他者に届いていない場面である。もちろん聞く耳を持たない警察を非難することは容易であるし、聞く耳を持つことの重要さが分かる場面でもあるが、内容が内容であるので、聞く耳を持てよ!と警察を非難するだけでは全く解決しないのも分かる。おそらくこのようにして会話が成立しない場面というのは世の中にたくさんあふれていると思った。

 しかしその後、私(主人公ギフン)の声が私以外の他者に届く場面も現れる。その比較をしてみると、私の声が私以外の他者に届くための条件が必要なことが見えてくる。私の声が私以外の他者に届くためにはどうやら条件が必要らしい。私の声が私以外の他者に届いていないと感じたときには、その条件を踏まえてもう一度届ける努力をする必要があるみたい。届け方を変えなければおそらく、届かない声は決して届かない可能性が大いにあるとしても、私の声が私以外の他者に届く必要はあるのだろうか?しかし、私の声が私以外の他者に届かないことが私の生命を脅かす場面だっておそらく必ずある。声は決して、声だけでは力を持たないのか。それは相手が聞く耳を持っていないせいかもしれないが、その一方で相手が聞く耳を持っていない場合に如何(イカ......)にしてその相手に自分の声を届けるか、という。相手が聞く耳を持っていない、というのは、相手は頑固だという意味では決してなく、英語しか聞き取れない相手に私が日本語でしゃべり続けているということだ。相手が日本語を勉強してくれる場合、私が英語を勉強する場合、通訳者を設ける場合、日本語でも英語でもなく新しい共通言語を作りそれを用いて会話を行う場合等、会話が成立するためには、たくさんの道筋があるっぽい。一方で初めから共通言語を持っているのは奇跡的だなと思ったし、そのまた一方では、例えば、同じ人と話していて、さっきまですんなり会話ができていたのにこの話題だけはどうも分かり合えない、話が平行線で進まない、というときもある。私の場合は日本語を使っている(ということにはなっている)が、一言に日本語と言っても、言語というのはもっと収縮的なものなのかもしれないということを思った。実際イカゲームでも、主人公ギフンと警察は同じ韓国語で会話をしているのに、まるで違う言語で会話をしているかのごとく分かり合えていなかった。「相手が日本語を勉強してくれる場合、私が英語を勉強する場合、通訳者を設ける場合、日本語でも英語でもなく新しい共通言語を作りそれを用いて会話を行う場合等、会話が成立するためには、たくさんの道筋があるっぽい」とは言ったが、言語が収縮的ならが、「勉強しよう」なんて明確に思わなくても例えば、言語の違う相手と長時間一緒にいれば相手の言語が分かるようにもなるかもしれないのかしらへえ。そもそも人間の体1つを1つの単位にしたとして私たちはそれぞれ違う言語を持っているのかしらへえ。

 本編には全く関係のないところでのお話でした。あはは、おもろかった〜、てへへぺろ。見終わったあとの私は「ああまじで、羊文学の「光るとき」やなあ」という感じでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?