「学習者の気持ちがわかる」とは何か

 様々な分野において、教師あるいは指導者を指して「あの先生は自分がもともと優秀だったから、『できない人』の気持ちがわからないんだ」などと評するのを、ときおり見かけるように思います。あるいは裏を返して「先生自身が昔は『できない人』の側だったから、『できない』生徒の気持ちがよくわかる」と言う場合もあるようです――こちらはしばしば教師や指導者自身が自身について言ったりもします。ここでの「できない」とは、学習につまずきを抱えていて習熟度が低い、といったニュアンスです。
 もっとも、世の中にはひどい先生がいるもので、生徒に向かって「こんなこともできないのか」「なぜこれができないのかわからない」などと放言したという話も、残念ながら耳にすることはあります。生徒からすればイヤミを言われた気分になるわけですが、中にはイヤミを言うつもりはなく本当に純粋な「疑問」として感じてしまい、それをそのまま口から溢してしまう先生もいるようです。確かにこういう場合は、先生が天才肌の変わり者であることが多いのかもしれません。
 実際、そのような指導者は「学習者の気持ちがわかっていない」と言えるでしょう。しかし、それでは逆に、「学習者の気持ちがわかる」とはどういうことでしょうか?「できない」側だった経験がある指導者は「できない生徒」の気持ちが本当にわかるのでしょうか?
 私たちはこのことについて慎重に考えるべきであり、あまりに安易な思考に陥らないようにする必要があるでしょう。確かに自分自身の経験がどう活かせるかを考えることは重要ですし、自身が悩んだ過去があるからこそ悩める学習者により添いたい、という志は非常に尊敬すべきものです。ですが一方で、学習者に自身の過去を投影するのは危険なことだとも思います。指導者と学習者はあくまで他人であり、能力の形も異なれば、何にどうつまずくかも異なっている可能性のほうが高いのです。突き当たっている学習上の困難に対する効果的な対策も、異なりうるはずです。仮に境遇が近かったとしても、やはり全く同一ではないわけで、自己と他者の差異に向ける眼差しは常に大切にしていたいところです。
 要するに、指導者自身が神童タイプであれ這い上がった苦労人であれ、むしろ学習者の気持ちは「わからない」ものである、ということを前提とするのが良いように思います。気持ちは「わからない」なりに、学習者の能力の形を探り、学習者にとっての学びの形成を観察することに、エネルギーを注ぐべきでしょう。そうした先に、いわば副次的な結果として、学習者の気持ちをある程度推測できる状態に到るのではないでしょうか。
 そもそも、「学習者の気持ちがわかる」からといって、必ずしも良き指導者たりうるとは限りません。もちろん、学習者に対してデリカシーを欠いた発言をするのは、指導者として不適切です。ごく一部の天才肌の先生方にそういった逸話があることはあえて否定しませんが、問題は指導者としての振る舞いにどれほど自覚的になれるか、というところにあるでしょう。私の身の回りには、自身が天才肌であってかつ「できない」学習者に寄り添った指導ができる、素晴らしい指導者が何人もいます。
 繰り返しになりますが、「あの先生は自分がもともと優秀だったから、『できない人』の気持ちがわからないんだ」のように言われてしまう指導者には、実際に指導の中での振る舞いに落ち度があったのかもしれません。ただし、その落ち度に対する学習者の不満がこのような「論理」の形式(Pであるから、Qである)を伴って表現されるということと実際の論理とは、注意深く分けて考えるべきです。あるいは「先生自身が昔は『できない人』の側だったから、『できない』生徒の気持ちがよくわかる」というのも、実際にその指導者の指導が多くの学習者に恩恵をもたらしているのならば、それはその指導者の指導の技術が高いということです。一方で(例えば私のような)新米の指導者が「自分自身が『できない』生徒だったから、きっと自分は『できない』生徒を指導するのに向いているはず!」と意気込むことは、高い志を示していると同時に危ういことでもあり、いずれにしても遅かれ早かれ、自分の指導の技術の問題に向き合う時が来るのだと思います。

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