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「宗教ってなんとなく怖い...」←これって本当なの?

どうも、イチハヤです。

今回はちょっと一緒に考えてもらいたいテーマでコラムを書いてみます。

そんなに重たい内容ではないので、さらっと読んでみてくださいな。
(深夜のテンション、ノリで書いてます。笑)

タイトルで触れましたが、テーマは

【宗教って怖いものなの?】
ということ。

一般的に、宗教って
「なんとなく怖いもの」というイメージが先行して、
特に根拠はないけど避けられる傾向にありますよね。

今日は果たしてその判断が正しいのかどうかについて
一緒に考えてもらえたらと思ってます。

まあ、そんなにかたくならずに。
ぼんやりとでも考えながら、先を読み進めてもらえたらと思います。(笑)


早速ですがボクはそもそも、人間は宗教的な生き物だと考えています。

ここで言う"宗教"というのは、どういうことを指しているかと言うと

触れない、実態のないものについて信じること全て

を指して使っています。

例えば、重力。(グラビティ)


重力は目に見えないし、触ることもできません。
でもボクたちはなんとなくそれがあると信じていますよね。
つまりこれも一つの宗教なんです。

重力があると信じている人、
リンゴが下に落ちるのは重力があるからだ、
と思っている人はみんな「重力教」です(笑)

ボクらは中途半端に科学的な知識を持っていて、
中途半端に科学信仰に染まっているから、

それが科学的にはどういうものであって、
いかに客観的に存在しているものであるかを
(その本質はよく理解もしていないくせに)なんとなく知っているし、
信じてもいます。

でも、その根拠は何でしょう?
自分の言葉で説明できますか?

根拠がないことを無批判に信じているとしたら、
構造的にはいわゆる宗教と変わりませんよね。

他にも、ボクらが日常で行なっている
宗教的な営みはたくさんあります。

例えば、自信。

「自分を信じる」と書いて、「自信」です。

一体、自分の何を信じるんでしょうか。
可能性かもしれないし、未来かもしれませんね。

だけどどちらも影も形も無いし、触ることもできないものです。
未来がどうなるかなんて誰にもわかりません。

だけどボクらはテレビで凄惨な事件のニュースを見ても、
なんとなくどこかで「大変そうだなあ。(でも自分は大丈夫)」と
謎の自信を持っているのです。

次の瞬間、自分の身に降りかからないとは言えないのにも関わらず、
「今日大丈夫だったから、明日もきっと大丈夫」と
無根拠に未来を信じているんです。

そんな根拠のないものを信じているというのは、
とても宗教的な活動ですね。

もちろん、これは他人を信じるという行為も同じです。


こんな風に何か実態のないものを「信じる」ということそのものが
宗教的な営みであり、ボクたち人間はこれを避けて通ることはできません。

だからボクは、
そもそも人間は宗教的な生き物だ と考えているのです。


「ねえねえ、神様っているの?」


小さな子どもからこんな質問をされたら、あなたはどう答えますか?

「もちろんいるに決まってるじゃないか。」
「そんなもの、いるはずがないよ。」

どう答えるかは人それぞれだと思うのですが、
ボクはどちらも不誠実な答えだと思うのです。

神様が存在するかどうかは、
現代の科学を持ってしても、証明することができません。

いることも、いないことも、どちらも証明できないのです。

なぜなら神というものが存在するとしたら、
それは人間の考えうる次元を超えた存在であり、
ボクらには見ることも触れることもできません。

仮に証明できたとしたら、それはもはや「神」ではない別の何かです。

いることも、いないことも、どちらも証明できない。
それが神です。

つまり、
「いる」と断言することも、
「いない」と断言することも、
どちらも根拠がないことを「信じて」いる証であり、

どちらの立場であっても、それは「宗教」なのです。

世の中には、「わたしは科学的に証明されているもの以外は信じない!」
という立場を固持して、そうでないものを信じている人をオカルトだなんだと一括りにしてバカにしている人がいますが、それは「科学教」です。

科学というのは面白いもので、
それを信じている人ほど宗教に対して批判的な態度を取ります。
でも、その人は立派な「科学教」の熱心な信者なのです。

彼らの怖いところは、
自分を宗教とは認めずに「宗教全てがバカなんだ」と言い始めるのです。
きっと彼らは自分を、宗教的な盲信から最も遠い存在であると思い込んでいるのでしょう。


・・・話が横道にそれました。(笑)


宗教が、怖いものなのかどうか

宗教がダメと言っているのではないですよ。むしろ逆です。

ボクは「これからの時代に活躍する人は、宗教心が強くないといけない」
と思っています。

宗教心は、人間に本質的に備わっている
「信じる力」や「願う力」であって、
これからの時代に活躍するリーダーに不可欠な「思いの強さ」の源泉になるものです。

ただ大事なのは、
「これは宗教である」
としっかり自覚した上でなお、
「信じる」ということを積極的に選択しているかどうか、という点です。

多くの人はその中途半端極まりない科学信仰のせいで、
本当の意味での“信仰心”を忘れ、その力も発揮できないでいます。

"正しい宗教との付き合い方"

だけど考えてみれば、新しいことにチャレンジする時に
どうなるかなんて誰にもわからないわけで、

それでも「大丈夫、きっとなんとかなる」と無根拠に可能性を信じて
一歩踏み出してみるしかありません。

その信じる勇気を与えてくれるものこそが
人間が本質的に持っている宗教性であり、"信仰心"なのです。

未来を切り開いていくリーダーや挑戦者は、すべからく
ある種の信仰心を持っています。

未知のものに無根拠な自信で立ち向かっていくその行為自体が、
強い宗教性を表していますよね。

逆に言えば、
自分に自信がないとか、
自分の可能性を信じられないとか、

あるいは
身内の可能性を信じられないとか、
他人の可能性を信じられないとか、

そういう人が世の中多いような気がしますが、
それは良くも悪くも宗教性を失ってきていることと無関係ではありません。

神様を信じることと、可能性を信じることは、構造的には同じなので、
神様を信じられない人ほど、可能性も信じられないのが普通だと思います。

まとめ

思ったより長くなったので、カンタンにまとめておきます。

これほどまでに変化の早い激動の時代を生きていくには、
未来の可能性を信じて、未知に飛び込んでいく勇気が必要です。

そのためには、
人間が本質的に持っている「宗教性」を排除するのではなく、
むしろ積極的に取り入れていく必要があるのではないか、
ということです。

中途半端な科学信仰によって、
目に見えないものすべてを「オカルトだ!」と
否定して生きることは、

まさしくそれこそが「科学教」の盲信であり、
それが自分自身の生き方を縛り付ける鎖になります。

大事なのは、「これは宗教である」
としっかり自覚した上でなお、
「信じる」ということを積極的に選択することです。

宗教心は、人間に本質的に備わっている
「信じる力」や「願う力」であって、
これからの時代に活躍するリーダーに不可欠な力なのです。


・・・とまあ、深そうでそんなに深くない話をしました。

言われてみれば、当たり前っちゃあ当たり前のことしか言ってません。

というか、ボクの発信は基本的に当たり前のことしか言ってないつもりなんですけどね。(笑)

ボクの発信を一言で言えば、
「当たり前のことを、当たり前と言えない世の中だけど、
そんな中でも、強くたくましく、
当たり前のことを当たり前にできる自分になろう」

と言い換えることができるかもしれません。


今日話したことも、ムリヤリ一言でまとめるとしたら
「信じるものは救われる」

となるのかもしれませんね。
(そんな一言だけ切り取ると多くの誤解を生むのですが。。。笑)

ではでは。深夜のテンションでお送りしましたが、
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m

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イチハヤ

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