起業家はどう学ぶか
ウパニシャッド
ヒンズー教の奥義書『ウパニシャッド』にこうある。
「人は理由があって修行するのではない」
「儀礼を通過すると、見えるようになるのだ」
「真実が」
我らは意味のあることを成そうとするけれど、経験して初めて分かる意味もある。自らの存在意義は、先に知っておくことができない。
起業家は後者を学ぼうとし、必然的に独特なやり方をとる。
連続起業家がなぜ会社を起こし続けるかと言えば、起業に身を晒すことで学ぶことができるからだ。
自らの存在意義を。
車、携帯電話、書籍。
人が作ったものは、最初から意味が付されている。しかし、神が作ったものは意味を掴むのに時を要する。
あなたは誰か。
誰を知って、
なにを成すか。
西田幾多郎は、「究極の善とは、自己の発見」と語る。
1902年まで生きたヒンズー教の指導者、ビベーカーナンダもこう言う。
ローソクの売上、過去最高
2021年、ローソクの売り上げが過去最高を記録した。
マーケティングでは、製品ライフサイクルというものを教えている。どんな製品も時間が経過すれば、生き物が死ぬように市場に受け入れられなくなる。
ただ、瞑想する夜、暗さを作り出す「意味」が付与されたとき、ローソクは生まれ変わる。
死ぬのは製品ではなく、製品の持つ意味の方だ。
ライフサイクルが極度に短くなった今、必要なのは製品を開発する力ではなく、意味を付与する力である。
すべてに意味を見出す。
いらないとされたモノ。
捨てられた人材に。
可能にするのは、自らの存在意味を見つけた者のみだと言われる。
仏教に「群盲象を評す」という戒めがある。
盲人たちが象を触る。
ある者は牙に触り、「象とは鋭い槍のようだ」と言い、足に触れた者は「象とは大木のようだ」と言う。
ブッダのすべてを知ることなど不可能なのに、知った風なことを言うなという戒めだ。
しかし、である。
我らはブッダのすべてに触れることはできないが、触れたその一部から魂を感ずることはできる。
それが新しい意味であり、死んだものすら、魂を得て再生し始める。
ドグマの一致、美の一致
資本主義の終焉が声高に叫ばれ始めた。
プラグマティズムという哲学がある。その旗手、ウィリアム・ジェームスは、教義や理論によって世界を一つにまとめることに懐疑的だ。
「時計のように生きよう」
「レールの上を歩もう」
「・・・」
「そのほか考えてはならない」
近代は確かにそんな時代だった。
教育、キャリア、善悪でさえ時計やレールの上にあった。
ドラッカーも、処女作『経済人の終わり』で述べている。人は教義でまとまるようにできてはいない、と。
ジェームスは、教義ではなく「美」だと書いた。美こそが、世界を一つにする。
10月に放送された村上春樹Radio。扱われたのは、若き日の山下洋輔トリオ。彼らが早稲田でゲリラライブを敢行した話だ。
当時の異常な音楽熱を、山下がこう話していた。
「一種の理想主義だね」
「世界を良くしているっていうね」
音楽でもダンスでもスポーツでもいい。美は、世界を多元的なまま一つにする。
ジェームスはこう言う。
「フットボールの目的は点を入れることにはなく、戦うことにある」
「神の目的も創造や救いではなく、ゲームをさせることにある」
「・・・・・」
「そうでなければ、天地創造がまったくの味気ないものへ堕してしまうではないか」
彼のプラグマティズムは「功利主義」と訳される。本質を捉えた訳語ではないと私は思う。
プラグマとは元々、ギリシャ語の「行為」や「実行」を意味する言葉だ。
我らはダンスの中で一つとなるのであって、教義が世界を一つにするわけではない。
人は行為の最中に一つになる。高尚なる教義などではなく。
神を掴むのも、行為の中ではないか。
小説『アルケミスト』で、主人公の師、錬金術師がこう言う。
「彼らは自分達の運命の宝物だけを求めていて、実際に運命を生きたいとは思っていない」
運命を生きる学び舎。
我らが起業するのは、そこに身を置くためであり、世界を一つにする魂を掴むためだ。
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起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)
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