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起業家はどう学ぶか

ウパニシャッド

ヒンズー教の奥義書『ウパニシャッド』にこうある。

「人は理由があって修行するのではない」
「儀礼を通過すると、見えるようになるのだ」
「真実が」

我らは意味のあることを成そうとするけれど、経験して初めて分かる意味もある。自らの存在意義は、先に知っておくことができない。

起業家は後者を学ぼうとし、必然的に独特なやり方をとる。

連続起業家がなぜ会社を起こし続けるかと言えば、起業に身を晒すことで学ぶことができるからだ。

自らの存在意義を。

車、携帯電話、書籍。

人が作ったものは、最初から意味が付されている。しかし、神が作ったものは意味を掴むのに時を要する。

あなたは誰か。
誰を知って、
なにを成すか。

西田幾多郎は、「究極の善とは、自己の発見」と語る。
1902年まで生きたヒンズー教の指導者、ビベーカーナンダもこう言う。

宇宙に唯一を見つけた者。その者に、悲しみはない。

生きるための唯一。生きとし生けるもののための唯一を。

男と男、男と女、人と子供
国と国、地球と月、月と太陽
原子と原子

『ウパニシャッド』には、こんな違いなどない、とある。

離れ離れであること。それがすべての悲劇の源。

上辺だけを見れば違いはあろう。だが、心臓は静かに鼓動を打ち、大道と軌を一にする。

あなたの中を見てほしい。

男と男、女と子供
人種と人種
高きと低き
富める者と貧しき者
神と人

そうした違いはない。

すべて一つである。動物と我らも。

深くに潜って欲しい。
惑いはない。

そのとき、人はどこで惑うというのか。
なぜ戸惑うのか。

我らはすべてを知る。すべての秘密を。

そのとき人は何を望むというのか。
神への道を知りながら。地上の鼓動とあまねく共鳴し。

我らは目に見えるすべてに神への道を見つけ、永遠の祝福となる。
永劫なる知恵、不死と。

死も病も、嘆きも悲しみも、別れもない。
心の臓に存り、純粋な一となる。

形なき形
穢れなき穢れ
命なき命

知るものよ
偉大なる詩人
一人立つものよ

あなたが地上に意味を与えるのだ。

PragmatismWilliam James著 より私訳

ローソクの売上、過去最高


2021年、ローソクの売り上げが過去最高を記録した。

マーケティングでは、製品ライフサイクルというものを教えている。どんな製品も時間が経過すれば、生き物が死ぬように市場に受け入れられなくなる。

ただ、瞑想する夜、暗さを作り出す「意味」が付与されたとき、ローソクは生まれ変わる。

死ぬのは製品ではなく、製品の持つ意味の方だ。

ライフサイクルが極度に短くなった今、必要なのは製品を開発する力ではなく、意味を付与する力である。

すべてに意味を見出す。

いらないとされたモノ。
捨てられた人材に。

可能にするのは、自らの存在意味を見つけた者のみだと言われる。

仏教に「群盲象を評す」という戒めがある。

盲人たちが象を触る。

ある者は牙に触り、「象とは鋭い槍のようだ」と言い、足に触れた者は「象とは大木のようだ」と言う。

ブッダのすべてを知ることなど不可能なのに、知った風なことを言うなという戒めだ。

しかし、である。

我らはブッダのすべてに触れることはできないが、触れたその一部から魂を感ずることはできる。

それが新しい意味であり、死んだものすら、魂を得て再生し始める。

ドグマの一致、美の一致


資本主義の終焉が声高に叫ばれ始めた。

プラグマティズムという哲学がある。その旗手、ウィリアム・ジェームスは、教義や理論によって世界を一つにまとめることに懐疑的だ。

「時計のように生きよう」
「レールの上を歩もう」
「・・・」
「そのほか考えてはならない」

近代は確かにそんな時代だった。
教育、キャリア、善悪でさえ時計やレールの上にあった。

ドラッカーも、処女作『経済人の終わり』で述べている。人は教義ドグマでまとまるようにできてはいない、と。

ジェームスは、教義ドグマではなく「美」だと書いた。美こそが、世界を一つにする。

10月に放送された村上春樹Radio。扱われたのは、若き日の山下洋輔トリオ。彼らが早稲田でゲリラライブを敢行した話だ。

当時の異常な音楽熱を、山下がこう話していた。

「一種の理想主義だね」
「世界を良くしているっていうね」

音楽でもダンスでもスポーツでもいい。美は、世界を多元的なまま一つにする。

ジェームスはこう言う。

「フットボールの目的は点を入れることにはなく、戦うことにある」
「神の目的も創造や救いではなく、ゲームをさせることにある」
「・・・・・」
「そうでなければ、天地創造がまったくの味気ないものへ堕してしまうではないか」

彼のプラグマティズムは「功利主義」と訳される。本質を捉えた訳語ではないと私は思う。

プラグマとは元々、ギリシャ語の「行為」や「実行」を意味する言葉だ。

我らはダンスの中で一つとなるのであって、教義が世界を一つにするわけではない。

人は行為の最中に一つになる。高尚なる教義などではなく。

神を掴むのも、行為の中ではないか。

小説『アルケミスト』で、主人公の師、錬金術師がこう言う。

「彼らは自分達の運命の宝物だけを求めていて、実際に運命を生きたいとは思っていない」

運命を生きる学び舎。

我らが起業するのは、そこに身を置くためであり、世界を一つにする魂を掴むためだ。

岡村なにしてんだ?

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起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)

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