2017年5月6日 祖母の死①
2017年5月6日のツイートをまとめたものです。
僕は寝る時は携帯を機内モードにしている。
妻が電磁波を気にするのと、自然に目が醒めるまで毎日安らかに眠りたいからだ。
今朝は6時に目が醒めた。
二度寝するつもりだったが、機内モードを解除して携帯をいじっていると、母から電話が来た。
おばあちゃんの訃報だった。
おばあちゃんは確か93歳くらい。
88歳の米寿のお祝いを親戚一同でしてから、認知症が徐々に進行した。
去年徘徊事件を起こしたことから自宅にいる父と母だけでは24時間見守ることが困難と判断し、入所施設に入っていた。
おばあちゃんは入所施設での4時の見回りの時には普通に眠っていたが、6時の時点では息をしていなかったようだ。
詳しいことはわからないが、自然死だろう。
眠るように逝ったのだろう。
少し「羨ましいな…」と思った。
母から電話を受けた時に、「そちらは大丈夫か」と聞いたが、もう親戚の方が手伝いに来てくれているようで、大丈夫だと言っていた。
僕はまだ驚きも泣きもしていない。
妹に電話をしてみた。
妹は遠くにいる。
GWで交通機関が混雑しているのと、3歳の双子がいるのと、旦那さんがGW中もずっと仕事であることで、頭が回らないようであった。
妹は泣いていた。
妹なら泣いているのだろうと思った。
「お前は悲しんでいるんだね…」と僕は口にしたが、「俺は悲しんでいるか?」とは聞かなかった。
妻が目を覚ましたらサイキック・リーディングで僕の心を読んでもらおう。
妹はGWに子供が「バターってどう作るの?」と質問されたので、ネットでバター作りを調べ、近くのバター作り体験ができる場所へ連れていってやったらしい。
子供の疑問に体験を通して教えてあげるとは、我が妹ながら素晴らしいと感心してしまった。
1時間くらい話をした。
おばあちゃんの訃報の件で電話をしたのに、8割は子供の話だった。
幼稚園でひっかかれたような傷をして帰ってくる。
保育参観の日に他の子を押したり、片付けを横取りする悪ガキを発見したと言っていた。
ああ、それは愛情を感じる時間が足りないのだねぇ…と思いながら聞いていると、「その子が突き飛ばすのは泣いている子で、先生を困らせちゃダメ!」って言ってるから、多分家でも自分が泣いて親に怒られているんだと思うと言っていた。
そうだろうなぁ。
他の子が片付けているのを見つけると、それを横取りして自分が片付けようとする。
それも片付けると褒められるから、褒められたくてやっているのだと予想していた。
全くその通りだろうなぁ。
他の子が幼稚園の先生にぎゅーっと抱きしめてもらっているのを見つけると、自分も後ろに並んで抱きしめてもらうのを待っているそうだ。
なるほどなぁ。
その子は3歳にして他人の顔色をうかがうことに意識の多くを使い、他人に怒られないよう、他人に褒められるように行動するという生き方をしている。
自分軸で生きるか他人軸で生きるかは、こんなに早く決まっているのだなぁと感じた。
妹は自分の子供にケガをさせた相手の子であっても「本当はとてもいい子だと思うんだけど、うまくいくといいなぁ」と言っていた。
そうだねぇと話をした。
1時間ほど話をすると、妹は「なんか落ち着いてきた。服も選べないしご飯も作れなかったけど、朝ごはんでも作ろうかな。電話ありがとう。」と言って電話を切った。
人と話すと、なぜ人は落ち着くのだろうね。
妹と話していると少し泣きそうになったが、すぐに自分のものではなく、妹の波動を受けての反応だとわかった。
静かに自分の心を感じると、やはり悲しんでいない…。
頭で考えるのをやめて、心で感じる。
僕「悲しみというのは、やはり悲しいと思う心が生み出すもので、悲しい出来事があるわけではないのか。」
◯◯「かつて死が終わりだと信じられていた時代、人々はなんとか死から逃れようとし、死を恐れ、死を嫌い、死を嘆きました。」
◯◯「罪を犯した者が死ぬと地獄に落ちると信じていた人は、死を恐れました。
それは大きな犯罪をしたような人ではなく、『小さい頃、親に嘘をついてしまったんだ』という本人以外気にもしないことを気にするような優しい心の人でも同じでした。
本人にとっては罪であり、地獄行きの切符なのです。」
◯◯「そんな時、『どんな者であっても阿弥陀如来を信仰するなら救われる。南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽へ行ける』という教えは、人々の観念を書き換えました。」
僕「死んでも大丈夫と思えたのか。」
僕は認知症は死への準備と認識している。
毎日一歩一歩元いた世界へ還るための準備をする。
記憶をなくし、認識をなくし、その日その日、その時その時を生きるだけになる。
認知症の人は周りの人に学びの機会を与えるが、自分自身が今世でやるべきことは終わった人だと思っている。
だから、問題はおばあちゃんにはなく、父さんや母さん、僕ら孫や施設関係者が学ぶだけだ。
僕のおばあちゃんが死んで、大きく学ぶのは多分僕の父やその兄弟だろう。あるいは入所施設の職員か。
以前福祉施設で会った人は、「特養(特別養護老人ホーム)ではもう働きたくない。仲良くなっては死んで見送るの連続だからしんどい」と言っていた。
僕は死が終わりではないと信じきっている。
それはチャネリングができるようになってから、何度も何度もメッセージとして受け取り続けた結果だ。
でも、実際にこの目で確認したわけではない。おばあちゃんは死んでどんな感じなのか、それが今一番聞きたいことだが、それだけが叶わない。
何ヶ月か前、父と一緒に祖母をデイサービスへ送っていった。
僕のことは誰かわからなくなっていた。
僕はその時にもう「おばあちゃん、ありがとう」と思い、もう生きている内に会うことはないだろうと感じていた。
おばあちゃんの死が悲しくないのは、それを悲しいと感じない僕の観念のせいだが、【死】が悲しくないわけではない。
隣で眠る妻の顔を見てみたが、呼吸をしていることに心底ホッとしたし、もし死んでたらこれは耐えられないなと感じた。
妻が起きたのでサイキック・リーディングしてもらったが、悲しみはないが緊張があるらしい。
そうか、僕は緊張しているのか。
仕事を休ませて下さいと言うとか、何を持っていくとか、急遽予定変更や準備が必要になったからかな。
予定外のことが起きた時ほど、「すべてうまくいきました。ありがとうございます。」と先に感謝しておく。
それがうまくいくのに一番役に立つ思考と波動だからだ。
実際、何も問題は起きないだろう。
おばあちゃんは長男である父さんのことだけは最後まで認識できていたようなのだが、施設に入所して少しすると父さんのことも忘れてしまった。
父さんはその話をしている時、「やっと忘れてくれたか(笑)」と笑顔で言っていた。
僕はその時どんな意味で言ったのか聞けなかったが、明日聞いてみたいな。
母さんから通夜と葬式の日程の連絡が来たけど、母は昨日もおばあちゃんに会いに行っていて、普通にお菓子を食べていたそうだ。
認知症以外には病気もなかったので、ピンピンコロリというやつに該当するのかな。
老衰でも寝たきり生活とかしないで逝けるんだなぁ…
続
いつもありがとうございます。 あなた様のあらゆる苦厄が取り除かれますように。 薬師如来真言唱えさせていただきます。 おんころころせんだりまとうぎそわか