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お話会音声ファイル

天根静也&林宗弘&◯◯
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2018年4月7日報恩寺にて行われたお話会の音声ファイルです。
こちらはあまねさんと私の対談になっております。

時間は1時間。
ファイルサイズ44MBです。

テーマは以下の3つです。

①坊主になったあまねさんと、坊主として生きたいはやしさん
②生老病死と向き合うには
③内側に神を持って生きるということ

この音声ファイルは投げ銭制です。
当初有料で販売する予定でしたが、いくらに設定してもしっくり来なかったので、聞いた人それぞれに値段をつけていただくことにしました。

結果的に広くどなたにでも届くようになったと思います。

私のテンパリ具合を聞くもよし、私のチャネリングがどんな感じなのか知りたい人にも役に立つと思います。
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※振り込んだ際にコメント下さるとお礼のご挨拶ができて嬉しいです。

お振込はこちらまで。

①ゆうちょ銀行

店番号248

普通12430-989151

※ゆうちょ以外から振り込む方は口座番号0098915になります。

②三井住友銀行

高田馬場支店(店番号273)

普通口座1562730

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※この先の文章は、お話会に参加してくれた方が好意で文字起こしして下さったものです。

内容は2つ目のテーマからです。


2018.04.07. あまねさん×林さん お話し会  報恩寺にて

「生 老 病 死 について」

この4つは生きる上でコントロールすることが難しい。
それにどう向き合って生きるのか。

仏の教えの中には生老病死にしがみつかなくなれば苦しくなくなるという教えがある。
人は死ぬ。しかし人は死にたくないと思わなければ苦しまない。
人は老いる。しかし老いて生きたくないという思いを手放して老いるに身を任せれば苦しくなくなる。
このように、何とかならないものを何とかしたいと思うこと、それを手放せば楽に生きられるよというのが釈迦の教え。

しかし、現代のこの世界で生きる上で敢えてそれをする必要はないのではないか。
病気になったら健康になろうと頑張れば良い。
なるべく自分を若く保ちたい、健康に保ちたい、と思って一生懸命努力すれば良い。
そのように努力することが報われず、望む結果が出ないことを“嘆くこと”をやめれば良い。
結果が出るかどうかではなく、自分がこの世界に生まれた理由。この生老病死が思い通りにならないところに生まれ落ちたということは、その生老病死に立ち向かうという課題に取り組みたいとそう願ったからである。ならばその課題に思いっきり取り組めばいいのである。
学校で宿題が出るとします。学校を辞めてしまえば課題に取り組むことはありません。ですから苦しみはなくなります。でもその学校に入りたくて行ったのであれば、その課題に一生懸命に取り組むということは私は良いことだと思う。

この世界というものは、あなたたちは観光地に来て観光をしているようなもの。テーマパークのようなもの。働くということ、恋をするということ、体を鍛えるということ、そうしたものを体験しに来ているわけです。
我々(神)の存在というものは、そこにどうしたらより楽しめるのかということを教えるガイドさんのようなもの。
あなた方はこの地上に体験をするために生まれてきている。しかし、人生80年から100年がせいぜいのところ。その人生の中ですべての体験をするというのは無理なこと。ですから何度も生まれ変わるのです。

死というものが、なぜそんなにも大きなテーマとして取り上げられるのか。
それはほぼすべての人が一回しか経験しないからです。
一度しか経験できないこと=その人の中でたいへん大きなものとして位置づけられる。
ウエディングドレスを人生で一度きりだからといって高い値段でいいものを着ようとするでしょう。2回する人も結構いますが(笑)
でも死というものは1回しかないわけです。
しかしお坊さんという職業の特殊なところは、死という体験をした人を無数に見ることが出来るということです。あなたがたは人の生き様を見て、それを体験として自分の中に取りこむことができるわけです。親の生き方を見て「こうはならないぞ」と思う人はたくさんいるでしょう。親の生き方を見て、自分がそれを体験した、あるいは親の体験を見たことによってそこから学ぶわけです。そしてその生き方は今世ではする必要がないなと思うわけです。死というものは殆どの人が一度しか経験出来ません。でもそれを天音さんはたくさんたくさん見て経験しているわけです。ですから、人に自分の教えを説くということは無益だということを理解しているわけです。その人たち(遺族)に寄り添って、その人たちが体験している瞬間を大切にする、それこそが自分に出来る最善のことだろうということです。

「内側に神仏をもつ人生で何が変わる」

「内側に神仏をもつ」これは仏の教えが出来たときから多くの人に広められ、ずっと語り継がれてきたものです。なぜそのような教えを広めようと思ったかというと、内側に神仏がなければ怖くて生きていけなくなってしまうからです。
例えばお母さんが子供を産んだ時に、お母さんがいつもここに居てくれる、ここにはお母さんが絶対居てくれる、そう思うから赤ん坊は冒険をすることが出来るのです。歩いて知らないところに行ってみたり、危険なこともやってみようと思うわけです。でも振り返っても誰もいない、そうなってしまったら怖くてどこにも行けなくなってしまうわけです。
あなた方の行動の原動力とは「安心」と「安全」、そして「平和」と「愛」であります。
それを内側に持つこと、内側に神がいると思うこと、内側に仏がいると思うこと。
それによって困難があっても、苦難があっても、困ったことがあっても、悲しいことがあっても、でも自分は大丈夫だと思える。
かつて人は死を恐れました。今も恐れていますが。
自分は悪いことをした、だから天国には行けない。どうしたらいいんだろう。
その時にどんなに悪いことをしたとしても「南無阿弥陀仏」と唱え続けるだけで大丈夫ですよ、という教えが広まったわけです。それで人は安心しました。もちろん地獄というものはありません。地獄というのは人の心の中にあるだけです。

内側にある神性を築くこと。自分の中にある神性を信じること。
それによってどんなことにでも力を持って取り組むことが出来る。それが内側に神性をもつ、神仏を内に秘めて生きるということの最も益のあるところです。
神が信じられなくなれば、神などいないと思ってしまえば怖くて生きられないわけです。
でも神がいなくても、神様なんか信じるものかと思って生きる人もたくさんいます。その人たちは自分を信じているわけです。私はそれで十分だと思います。自分を信じられれば生きていけます。神でもなんでもいいのです。ひとつ自分が心から信じられるものがあれば人はいくらでも前に進んでいくことができます。
神性に限ることはありません。
自分が磨き上げたスキルでも、信じている友人であっても、ただ生きているということであっても、仏の教えであっても、そうしたものを内に秘めることで、この世界で生きる上であらゆることに意欲的に取り組んで楽しく生きていくことができると思います。

あまねさん。
大事なこと。自分で自分を許すこと。
どんなとんでもないことをしても、唯一許せるのは自分。
いいことは周りがほめてくれる。
親はそんな自分でも受け入れてくれるかもしれないけど、最終的には「こんなことをしてしまった自分はダメなやつだなぁ」と思いつつもそれを許せるのは自分しかいない。
自分で自分のことを救えた。
自分で自分を大事にして、自分を許していくということが大事。

自分の生き方を許し、認めることが出来た、受け入れることが出来た、好きになることが出来たというところが素晴らしい。

先ほど内側に何か信じられるものがあれば生きていけると言いましたが、自分のことが許せない人は信じることを持つことを自分に許せないわけです。「南無阿弥陀仏と唱えれば天国へ行ける」と言われたとしても、「いや、私には天国に行く資格などない」「私は許される価値などない」と思ってしまえば、その教えが心に届くことはありません。
一番大事なのは、自分がどんな選択をしたとしても、どんな生き方をしたとしても、それは絶対に間違っていないということです。無駄な体験はありません。何百回、何千回、何万回と生きるうえで、一度も悪いことをしないで、一度も人を殺さないで、一度も人を傷つけないで生きていくということは出来ません。もしそれが出来るのであれば、この地上に生きてくる意味がないからです。
もしこの中に、自分がこれまでにしてきたことや、今自分がしていることや、これがしたいけれどもできないということがあって、何か一つでも自分のことで許せないことがある、受け入れられないことがある、好きでない自分がいるのでしたら、どうぞ今日から許してあげてください。おそらく、自分の許せないことについてここで語ったとしたら、あなた以外のすべての人が許してくれるでしょう。それぐらい許さないという思いは自分だけの独善的なものであります。自分一人の価値観によってうまれた思想であります。許されないことなどございません。

いつもありがとうございます。 あなた様のあらゆる苦厄が取り除かれますように。 薬師如来真言唱えさせていただきます。 おんころころせんだりまとうぎそわか