明治天皇と日野市


日野宿本陣

明治天皇と日野との関わりは明治5年(1872)に始まった六大巡幸の四回目、明治13年(1880)の中央道巡幸に始まる。中央道巡幸は明治13年(1880)3月30日に布告され、4月29日に6月16日東京御発輦の日程が発表、当日午前9時30分赤坂仮皇居を御発、甲州街道に向かわれた。甲州街道の各宿場、日野宿においては前日15日より入念な奉迎準備が進められ、武蔵国総社である大國魂神社では奉幣が行われ、幣帛が神前に捧げられた。この巡幸には伏見宮貞愛親王、三条実美(大政大臣)、伊藤博文(参議)、寺島宗則(参議)、松方正義(内務卿)、河野敏鎌(文部卿)、徳大寺実則(宮内卿)、三浦梧楼(陸軍中将)をはじめとする皇族、重臣を含めた350名余りが供奉随行したとされる。鹵簿は15時15分日野駅(日野宿)に駐蹕、日野の名主が羽織袴で威儀を正して奉迎し、佐藤彦五郎長男である佐藤俊宣家邸宅(日野宿本陣)で御小休、再び鹵簿を進められ、17時40分に行在所である八王子寺町の谷合弥八邸宅に御着された。巡行はその後甲州街道、中山道を進まれ名古屋より伊勢の神宮へ向かわれ、三回目の神宮御親拝の後、京都、大阪を経由され神戸にて軍艦に御乗船、海路東京へ還幸され、7月23日に赤坂仮皇居に還御あらせられた。

明治天皇日野御小休所阯及建物附御膳水碑

明治14年(1881)2月20日、明治天皇は狩猟のため八王子恩方から多摩蓮光寺へ行幸の途中、佐藤俊宣家邸で御休止された。この時、俊宣は再度の行幸に感激し、表門を御乗馬のまま進める様に路面を掘るなど工夫した。また佐藤邸行幸の際には山岡鉄舟より明治天皇が召し上がる酒の用意を仰せつかると、献上する上酒が当地域に無いと奉答したところ、地酒で佐藤家の酒器でも良いとの叡慮を受け、宿内の和泉屋から地酒を取り寄せ献上した。
俊宣一家が台所で控えていると、御座所から明治天皇の御笑い声が聞こえ、俊宣があと何事かあったとで側近に尋ねると、御座所襖の蜀山人(狂歌師・大田南畝)の自画自賛の狂歌を気に入られ御笑いになったとのことで、俊宣は思わぬ光栄に心が躍ったという。
この時の御座所は俊宣の弟である有山彦吉が明治26年(1893)の火事のため被災したため佐藤家から有山家に移築された。

その後、日野宿本陣建物ならびに有山家に移築された御座所は昭和9年(1934)11月1日に明治天皇聖蹟「明治天皇日野御小休所阯及建物附御膳水」として旧指定史蹟名勝天然記念物を受けたが、昭和23年(1948)6月29日GHQの指示ににより指定を解除、現在は都内に残る唯一の本陣建築として東京都指定史跡「日野宿脇本陣跡」に登録されている。

参考文献

日野町役場『日野町誌』昭和30年
日野市史編さん委員会発行『日野市史 通史編三 近代(一)』昭和62年


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