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Pray for Myanmar

2月6日10時過ぎから、ヤンゴン市内ではネットが不通となった。通信は電話のみに限られ、とんだデジタルデトックス生活に突入する。
いつまた途絶えるやも知れぬ、世界との接続が保たれている間に、世界が一変した月曜の早朝から今までの顛末を、思うさま書いてみる。

未明の激震
2月1日早朝、国軍によるアウンサンスーチー氏と与党幹部拘束のニュースに、慄然と飛び起きる。
政権転覆、非常事態制限、空港の閉鎖が次々と明らかになる中、まずは7時に電話が止まる。Viberやメッセンジャーに移行して対応を続けるも、9時前にはこちらも不通に。政治的な理由による回線の遮断という未曾有の事態に、東日本大震災の時とは異質な薄気味悪さを感じながら、出勤してきたスタッフとともに、思いつくだけの策を講じていく。

幸い、昼過ぎには回線が復帰。それと同時に訪れる「通知祭り」を捌きつつ、情報収集にあたる。気づけば、辺りはすっかり夕暮れに。

走り回ったわけでもないのに、異様な疲労感が募る。思えばついぞ前日は、よく行くショッピングモールで日本式のクレープを堪能したばかり。得難い逸品にほんわか満たされ、次はいつ行こうかなんて淡い期待を抱いていた矢先、一夜にして、暗澹の怒濤に飲まれることになろうとは。

劇的すぎるコントラストに強烈な目眩を覚えながらも、10年前の震災を思い出し、あれからどう成長したのかを問われる局面なのだと思い直して、とにかく無傷で乗り切ろうと、気合を入れた。

翌2日、銀行が営業を再開。スーパーも時短ながら平時通りの営業を続けてくれている。
よかった。現金と食料の供給に目処が立てば、当座はなんとかなる。

再び回線が切られるという噂が回る中でも、市内も住民も冷静だったのも大きかった。
銀行も混雑こそしたものの、取り付け騒ぎもなく、ショッピングモールも閑古鳥が鳴き、買い物客が殺気立ってスーパーに詰めかけることもなかった。 

CDM
しかしそれは、ミャンマー人たちが押し黙ることを意味しない。
1日以降、毎夜20時になると、街の至るところから甲高い音が巻き起こる。窓辺で、あるいは門の前で金物を叩いたり、クラクションを鳴らし続ける。これらは、持続的な音が「悪魔を追い払う」という、古い言い伝えに沿った行動である。

楽しげに見える瞬間もあるが、伊達や粋狂でやっているのではない。激しく打たれ、原型をとどめなくなるほどにまで変形した金物を見れば、彼ら彼女らの思いの強さは、察するに余りある。

それ以外にも、病院スタッフや学生らが、赤いリボンを結え、横断幕を掲げて次々と意思表明をしていく。加えて、SNS上や街中では、まなじりを決して三つ指を突き出す人々が現れ始めた。起源には諸説あるが、抗議の意を表す仕草らしい。

これら一連の振る舞いは、“市民による不服従運動(CDM:Civil Disobedience Movement)と呼ばれている。街中のそこかしこで、あるいはSNS上で、このような活動が展開されている。

イタチごっこ
2月4日以降は、通信を巡る攻防が繰り広げられていく。
反対運動を抑止するための最初の標的になったのはFacebook。ミャンマー人のほぼ全員が使用し、インターネットとほぼ同義とみなされる「情報の大動脈」の封じ込め作戦が、まずは発動された。4日の早朝から、キャリア回線では接続ができなくなった。

それに抗うべく、VPNの設定方法が燎原の火のごとく広まったり、Twitterに乗り換える人たちが続々と登場する。そして、Twitterの抑え込みが敢行されれば、オフライン下でも通信可能なコミニケーションアプリが伝わっていく。
「消せば増える」というSNSの魔術が、形を変えて立ち現れているのか。今回の件は、奇しくもミャンマー国内のデジタル事情に一石を投じる結果をもたらしている。

現在、そしてこれから
今後の見通しは、まるで立たない。混迷の渦は、見つめれば見つめるほどにその深みを増していく。今日はついに、本格的なデモが始まった。

訪れる結末は、88年の再来か、それともキューバ危機の英断か。その政治的帰結以前に、誰の血も流れないことだけをひたすらに願う。

ならぬことは、ならぬものです

私が東北出身だからなのだろうが、“理不尽を看過せず、力に屈せず、自らの誇りと尊厳をかけて闘い抜く”その姿勢に、私はかつての会津の人々の姿を見てしまう。

幕末の会津藩と現代のミャンマーでは、置かれている文脈がまったく異なることは分かっている。ただなぜか、立ち昇る思いはこれなのだ。

今夜もまた、「願いの響き」がヤンゴンを覆う。

どうか誰も傷つきませんように。
願いはただ、そればかりである。

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