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拝啓 “あの日”の君へ

銃声
緊張の夜が明け、月曜を迎えた。
昨夜、ヤンゴン市内各所で銃声が鳴り響き、私の耳にもその音は突き刺さった。

「ついにここまで来たか…」

衝突の激しい地域からは距離をとってきたものの、向こうから迫ってきた。

どうやら同時間帯に、市内12地区で行われていた模様。特定の標的を狙っているものではなく、威嚇が目的のようであった。
しかし、“まさか”はあり得る。跳弾も見越して、窓から離れた場所に寝る場所を変更する他、かつて『ゴルゴ13』で読みかじった防衛策を講じ、眠りについた。

暗澹と混乱
明くる月曜以降、状況は改善の兆しをまったく見せないまま、ただただつらい知らせが届く。
繰り返される殺傷事案、夜間の包囲網、与党幹部が拘束され、“声なき姿”で戻される様子など、筆舌しがたい現実の重さに、ひたすら沈む。

また、日本の対応についても、一悶着巻き起こる。

プロの外交官が行うこと。言葉1つの選択にしても、最新の注意が払われるものと察する。
その交渉の内奥は、側から見ているだけでは分かりかねる複雑なものになり得ることは、以前読んだこの本で痛感した。

綿密な戦略を練った上で臨んだ場のはず。人それぞれ意見はあれど、私自身は、“脊髄反射でリアクションしない”という思いで受け止めた。
しかし、ミャンマーの方々の心証をかなり悪化させたというのは、皮膚感覚として強烈に感じるところである。

揺れに揺れて始まった1週間。穏やかならざる心中のまま、10年目の“あの日”を迎えた。

10年
3月11日は、回線復帰後に河北新報を開く。
これまでもこの日はそうだったが、10年という節目を迎えた今日、紙面に広がる思いの束は、一味も二味も違う。

これは1面の写真だが、何気ない家族写真であるにも関わらず、私にとってはとても「雄弁」な1枚だ。

同紙の中には、2011年3月12日の1面も掲載された。

当時の私は、製薬会社に勤務する若手社員。東京で営業の仕事に明け暮れていた。

工場の稼働停止や物流拠点の混乱により、医薬品供給に危機が迫った。
扱う主要品目が透析関連製品であったため、安定供給確保は絶対の防衛ライン。それを死守すべく、営業車に薬を満載して、夜中まで透析施設を駆け回った。

その時の経緯を、団内の勉強会で共有した。
誰かに改めて伝えるのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。記憶と資料をたどりながらまとめていくと、“その後”も含めた具体的なエピソードがよみがえる。

鬼の形相で詰め寄る病院薬剤師
疲労困憊で床に倒れ込む配送事務職員
危機に際し露わになる人の本性
被災地で奮闘する同級生
悲しみの味がした、地酒・浜千鳥

どれもがすべて、紛れもなき現実だった。
そして、それら1つ1つは、私の構成要素となっている。

あれから10年。体力はともかく、知力と胆力はずいぶんマシになって、“カッコいい”毎日を謳歌しているはずだった。
涼しい顔に笑みを浮かべ、トラブルもしなやかにいなす、「洗練されたプロフェッショナル」になれているはずだった。

しかし今、そんな姿は影も形もない。
そこにいるのは、あの時同様に打ちのめされ、日々決断に迫られて削られまくる弱い人間だけだ。

拝啓 “あの日”の君へ

今はさぞかしきつい毎日だろう。家族と連絡がつかず、慣れない配送業務に疲れ切り、不必要に刺々しくなる同僚に手を焼き、ため息とともに迎える朝が続いているはずだ。

残念だが、10年後にも安息はない。
異国の地で新型感染症と政変の渦中に置かれ、理不尽に人の命が奪われる毎日を生きることになる。壮絶を絶するリアルが待っている。

ただしそれは、絶望や後悔を意味しない。

これからの10年、大きな怪我も病気もなく、定めた目標に鈍足ながらも向かっていける。
その中で出会う多くの人や言葉に背中を押され、いいこともそうでないことも味わいながら、「生きるっていいもんだ」と信じる日々を過ごすことになる。

理想には程遠い。でも、捨てたもんでもない。
どうかひたむきに、時を刻みなさい。

10年後は、どんな言葉が出るのだろうか。
すべては「今、ここ」次第なのだなと、湿度きつめのヤンゴンで思い直した、10度目の3月11日となった。

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