昔から雨が嫌いではなかった。ある日、閉鎖されたくだらない教室に広がる内の世界から、ひらけた外の世界を窓越しに眺める。ラッキーなことにその時は窓側の席で、そしてその日は雨が降っていた。上から下へと一定のリズムで移動する大量の雨粒を眺めていると音を鳴らしてぐるぐると頭の中を巡る思考が落ち着いた。水が地面を叩いて弾ける音は、雨粒たちがやりきれない弱い私の代わりに飛び跳ねてくれているようだった。だから、他の子達が「雨だ〜最悪」と嘆く声が響くのを聞いて、よく心の中で首を傾げた。そんなにも何に不快感を覚えるのだろう。私にとって雨は、ある種の特別な天気であるから不思議に思っていた。よくそう嘆く子達を観察すると、一般的に服が濡れたり、外が暗くじめじめしたりすることが気分を害する原因であるようだった。なるほど、そこで気づいた。私が圧倒的にインドア派だからその不快感を共有できないのか、と。簡単な理由だった。納得して、心の中で一度だけ深く頷く。長年疑問に思っていた割にはあっさり解決したな、と、また窓の外を眺めて精神統一を始める。雨は視覚的にも聴覚的にも精神統一にピッタリだった。規則性のある、強すぎずも弱すぎずもない感覚への刺激が日々の無駄な思考を止ませる。そして、雨が特別な理由はそれだけじゃない。実は分かっていたのだ。雨が好きな本当の理由。なんでみんな雨が嫌なんだ、と、理解できない一匹狼のふりをしながら、心の奥底で周囲に雨を好きになるよう強要し、共有したい気持ちがあった。自分の弱さから目を背けるために。自分以外の人間が存在しているから孤独を感じるように、人からの目を気にせず、目一杯に太陽の光を浴びてのびのびと家外で活動している人間を想像すると、家から出たくないと思っている自分が惨めに感じた。悪いことをしているわけでもなく、ただ自分の好きなことを選んでいるだけなのに、そうやって行動にも起こさずだらだらと思考をし、人の目を気にしていつも他人を優先している自分が、窓を隔てて見える向こうの世界の住人より一つ下に思えた。だから、そんな臆病で甘えた自分を雨は味方してくれていると、ずっと雨に仲間意識があるのだ。キラキラしたアウトドアな人間達を不快にさせて、室内に閉じ込める雨。窓の横に座って、降ってくる雨を眺めていると、雨粒達が私を優しく撫でて寄り添ってくれているようだ。「今日は君に優しい日だよ」と耳元で囁いてくれているようだった。予報されず降り出す雨は、連日続いた心乱される日々の中に、突然現れるオアシスだった。雲が太陽を隠し、雨水が湿度を上げると、人々の活気が収まる。常に体力がなく生気のない私が雨のおかげで大衆の中に紛れることができる。重たい雫ひとつひとつが私の負のオーラをまとった複雑な思考のかたまりを吸収して、地面に落ちては、弾けて粉砕してくれる。そんなことをまた頭を働かせて妄想するのだ。雨は私にとってエナジードリンクのようなものだった。キリがない、とため息をつく。チャイムが鳴ると静かに椅子を引いて、足音を立てずに玄関へと向かう。傘をさして外に出る。傘を叩く雨水の生命力は凄まじくて、傘を支えきれず不可抗力で俯いた姿勢になる。私の少ない残力も吸い取られてしまいそうだ。もはや味方なのか敵なのかわからない雨。湿気でうねる前髪がおでこに張り付いて気持ちが悪い。早足で家に帰りながら、へばりついた前髪をいじる私に気がついた。なんだ、結局私はみんなと同じなんだ。特別に味方されているわけじゃなかった。絶望するというよりは、大衆に紛れることで、おぼろげな責任という名の肩の荷が剥がれて落ち少し気が楽になった。私の涙も雨に紛れる。もしかしたら表面的には嫌だと言いながら、他の子達も雨で涙を誤魔化したことがあるかもしれない。そうであると願ってまた次の一歩を踏み出す。