早見慎司劇場4:「足音」

 夜九時の終バスに間に合わせるつもりだったが、都心での編集者との打ち合わせが意外に長引き、中央線で国分寺駅に着いたときには、もう十時を回っていた。
 タクシーに乗るほどの現金を持って出なかったので、後は西武多摩湖線に乗り換えてひと駅、そこから家まで歩くしかない。
 だが、夜の電車は好きではない。必ず酔っぱらいがいる。
 今夜も、多摩湖線への長い乗り換え通路を歩いていると、足許の定かでない中年の男が、くしゃくしゃの紙袋を握り、大声でわめきながらふらついていた。
「馬鹿野郎。何が西武線だ。ほんのちょっとじゃねえか」
 同じ文句を、何度も繰り返している。どうやら、通路が長いもので、前の電車に乗り遅れたらしい。確かに多摩湖線は駅が三つしかない短い路線なので、意味は通っている。しかし、それこそ次の電車が来るまでほんの少しの時間ではないか。何が不満なのか、呑まない私にはさっぱり判らない。
 しまいには、ホームのこちらの端にある椅子にだらしなく足を投げ出して座り、それでもなお切れ切れに、繰り言を呟いている。
 辺りには何人か、電車を待つ客がいたが、みな、素知らぬ顔をしている。自分も、何も見えず聴こえもしない、という顔をして、灰皿の所で煙草をふかしていたが、内心は穏やかではない。危害を加えそうにはないとはいっても、気持ちが良くはないし、他の客たちが平然としているのが、なお気持ち悪い。そういう慣れ方をするのが、好きではない。だが、自分も皆と同じように振る舞っている。それがなおさら落ち着かない。
 やっと電車が来た。向こう端の車両に乗った。男を避けたつもりだったが、生酔い本性違わずなのか、相手も同じ車両に乗ってきた。なぜそう思ったかというと、こちらへ乗ると次の駅の北口に近いのだ。おそらく、同じく次の駅で降りるのだろう。ほんの数分だが、乗り合わせるのは気が重い。
 まもなく電車が発車して、五分ほどで駅に着いた。酔っぱらいの男は、電車の中では静かで、降りるなり、ホームの椅子にへたりこんでしまった。ほっとして、早足に駅を出た。
 家までは、まっすぐの通りを十分ほど、歩くことになる。バスに乗りたかった理由の一つがそれで、東京の三月初めはまだ冬の内だ。夜ならなおのこと、体がすっかり冷えてしまう。バスなら停留所から家まで、三十秒なのだ。
 通りは二車線だが、街道へ抜けるので、道幅は広い。商店だの、銀行の支店だのが並んでいて、みなシャッターを下ろしている。街灯の間隔も広く、その合い間は、ずいぶんと暗くなる。
 この時刻、人通りも決して多くはないので、早足になっていた。
 後ろから、こつこつ、という足音が近づいてきた。さりげなく様子をうかがうと、反対側の歩道を、若い女が歩いてくる。白いオーバーを着て、バッグを肩から提げた、いかにも会社帰りというかっこうだ。長いブーツを履いていて、それがこつこつ、音を立てているのだった。

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