5:夏への旅


 プラットホームの中ほどに小さな花壇があって、首が垂れそうなほどに育ったひまわりの花が、夕ぐれの陽ざしを追っている。
 僕はベンチに座って、それをぼんやり眺めていた。
 ここがどこなのか、僕にはよく分からない。……いや、ホームに立った白い駅名標示の板には「ひとりだに」――日取谷とあるのだが、かんじんの県名がないのだ。
 そもそもこの駅にたどり着いたのは、小さな偶然からだった。

 八月の初め、友だちから手紙をもらった。
 彼は作家なのだが、小説が何冊かヒットしたのをきっかけに、東京を離れて海ぞいの小さな村へ引っ越してしまい、作品を書きながらのんびりと暮らしている。僕より二、三才上の、三十代の半ばだというのに、優雅なことだ。
 その村で、古くからあった役場の建物を取り壊すというので、写真を撮りにこないかと誘われたのだ。
 僕は、建物の写真を撮っている。特に古い建物には、魅かれるたちだ。
 ちょうど、仕事も入っていた。ある小さな劇団の芝居で、背景に海のスライドを映したいというのだ。友だちの住む村は、注文された海のようすにちょうど合っていた。
 それで、僕は汽車を乗り継いで村へ行き、友だちの家でとれたての魚をごちそうになりながら、何日かかけて、役場の写真と、海のさまざまなスライドを撮った。
 ところが、帰りの列車でいねむりしているうちに、乗り継ぎをまちがえたのか、気がついたら、この山間の駅に着いていた。
 しばらく待っても列車が動かないので、ホームに出て、駅員にきいてみると、ここが終点で、しかもこの汽車が最終だという。
 まだ時刻は早いし、見たところ操車場らしいものもないのだが、そのうち汽車はどこかへ行ってしまい、ホームには僕ひとりが残されたのだった――。

 いつまでこうしていてもしょうがない。僕は荷物をかついで立ち上がった。
 改札口で運賃の清算をしてもらいながら、きいてみた。
「この辺に、旅館はありますか?」
「ああ……だいじょうぶだよ」
 制帽を深くかぶった初老の駅員は、うなずいた。
「きょうは、八月の十三日だからね」
「それが――何か?」
「村の中の道を、まっすぐ行くんだよ。まっすぐにね……」
 それだけ言うと、駅員は事務室の奥にひっこんでしまった。
 わけが分からないまま、駅前の広場に出て振り返ると、日取谷の駅は、おそらく明治か大正のままだろう、古めかしい木造の駅舎だった。
 僕はカメラを出し、駅舎を映した。
 屋根の上には、暗いほどに蒼い空が広がっている。モノクロームの写真には、黒く映ることだろう。

 舗装されていない、細い道を歩きながら、僕は電話を捜した。帰りが一日遅れるので、海のスライドを待っている劇団に、連絡しておかなければならない。
 電話ボックスは見あたらなかったが、やがて道の左側に、たばこ屋を見つけた。
 ふつうの民家の一隅が、窓口になって、四角いガラスの広口瓶に、駄菓子のようにたばこの箱が入っている。「たばこ」という鉄の看板がかかっていた。
 全体に、古くさい印象がする。
 僕はたばこを喫わないので、最初はぴんとこなかったのだが、どうやらこの店には、最近の銘柄は置いていないようだ。マイルドセブンなど見当たらない。
 「ゴールデンバット」とか「ききょう」とか「いこい」とか、古いデザインのものが多かった。くすんだ茶や緑の色合いが、なんともいえず時代を感じさせるのだ。
 僕は、これも写真に撮っておいた。
 たばこ屋の店先には、ほこりをかぶったピンク電話があった。
 色あせたような受話器をとって、十円玉を落とす。――発信音が帰ってこなかった。
 僕は、窓口から声をかけた。
「すいません。この電話、壊れてるんですか?」
 暗い家の奥で、人の動く気配がして、やがて、おばあさんが顔を出した。
「どこへ、かけるの?」
「東京ですけど」
「ああ。それなら、100番通話なの。ちょっと待ってね」
 おばあさんは、外へ出てきた。電話機の横についたカギを回す。
「これで、100番にかけてみて。交換手が出るから、電話番号を言えば、つないでくれるから」
 おかしいな、と思った。
 確かに昔は、市街通話のときにはそういう手順だったが、それは僕が子どもの頃の話――二十年かもっと昔で、今はどこでもダイヤル直通ではないのだろうか。
 とにかく、ダイヤルを回してみた。
 ――呼出音がきこえない。
「もしもし?」
 少したって、小さな声が聞こえた。
『――もしもし?』
 ……僕の声だった。
「交換ですか?」
『――交換ですか?』
 いくら話してみても、自分の声がこだまのように帰ってくるだけで、どこへもつながっているようすはなかった。
 あきらめて、僕は受話器を置いた。
「すいません。故障してるみたいです」
 言うと、たばこ屋のおばあさんは困ったような笑みを浮かべた。
「あら、そう。『うまくできていない』のね。ごめんなさい」
 ――また、謎のようなことばを聞いた。
「この村に、旅館はありますか?」
 きいてみると、おばあさんは首を振った。
「それが、ないの。むかしは一軒、あったんだけれどねえ……でも、泊まる所だったら、心配しなくてもいいのよ。この道をまっすぐ行ってごらんなさい」
 どういう意味ですか、ときき返そうとしたときには、おばあさんの姿はなかった。
 ガラス戸の向こうは暗く、人がいるのかどうかも見えない。
 ……まあ、どうにかなるのだろう。僕はカバンを肩にかけ直して、道を歩きだした。

 人けの感じられない家並みは、すぐにとぎれてしまった。
 まっすぐに、と言われたが、やはり宿らしいものはない。とにかく、歩けるだけ歩いて見よう。
 家並みを抜けると、一面の水田だった。
 人の姿がないのは、時間のせいだけではないように思えた。
 まだ穂を出さない緑の稲が、今をさかりとまっすぐに伸びている。時おり、田んぼの上で小さな風が起こるらしく、稲がゆらいでは、小さな風の道を作り出していた。
 水田の向こうに、山に抱かれて、学校の校舎が見えた。古い木造の建物だ。
 これは写真に撮っておきたい。僕は学校へと近づいた。
「ごめんください。……すみません」
 開け放された玄関に立って声をかけたが、用務員(今は校務員というんだったっけ)の返事はなかった。
 玄関が開いているということは、入っていいということだ。――勝手に解釈して、僕は靴を脱いで、廊下へ上がった。

 木造の校舎を歩くのは久しぶりだ。廊下の板がところどころ沈む感触、窓からの陽ざしがほこりを照らして作る光の筋、ペンキのはげかけた温度計……そんなものを僕は楽しみ、次々にシャッターを切った。
 木造の校舎には、光が全部に回るわけではない。ところどころ、たとえばタイル貼りの長い洗面所のあたりなどに、涼しくなつかしい暗がりが隠されている。光と闇とのコントラストがすばらしい。
 教室も、ところどころのぞいてみた。習字や時間割を貼った壁、生徒が作ったらしい飛行機の模型。木製の机には、彫刻刀で彫り込んだ名前だのいたずら書きがある。板を並べた椅子は、こわれたところをトタンで継いである。
 古い学校は、そんな細かいおもしろさを、いくらでも見せてくれる。最新の校舎も写真に撮ったことがあるが、どこも均一で、細かな楽しみはなかった。
 いろんなディテールを写真に撮りながら、教室の外れまで来た。その向こうには、木のすのこを渡した、壁のない渡り廊下があった。
 すのこをぎしぎし言わせながら歩いて行くと、渡り廊下は体育館の入り口につながっていた。

 体育館は、今ではほとんどない木造のものだった。磨き上げられた床――きっと全校生徒でやったのだろう――、壁には、登って体力を試すための横棒がある。窓は小さく、薄暗い室内だった。
 見ると、バスケットボールがひとつ、ころがっている。古い校舎を見たせいか、昔に帰ったような気がして、僕はボールを手にとった。
 中央から、ドリブルをしながら走って、ゴールの横でジャンプして、片手でボールを入れる。近頃は運動不足なのだが、鮮やかにシュートが決まった。
 気をよくして、何度かやってみた。いつのまにか、時間も忘れて遊んでいた。
 ――人の気配を感じて、立ち止まった。
 校庭への出口が開いていて、女の子がひとり、外の光を背にして立っている。
 十五才ぐらいだろう。白いブラウスに、色の薄い細かな花模様のスカートをはいている。気のせいか、顔色があまりよくなかったが、とても清楚な感じがした。おさげに結っている髪が、色白の顔に似合っているせいかもしれない。
「ごめん。……勝手に上がり込んで」
 なぜだか、僕はそう言ってしまった。女の子が、この学校の主のように思えて。
 たぶん小中学校が一緒になった分校だから、この子がいちばんの年長なのではないか、とも思ったのだった。
 女の子は、黙って、こちらをじっと見ている。なんだか照れくさくなって、僕は声をかけた。
「君もやらない? バスケット」
「……」
 女の子は、動かなかった。
「やったこと、ないの?」
「……」
「おもしろいよ、ほら」
 僕はドリブルをしながらゴールの下に曲がりこんで、ジャンプしてボールを入れた。
 女の子は感心したように見ている。
 僕は少し得意になって、
「ちょっとやってみれば、できるようになるよ。――おいで」
 手招きすると、女の子はためらうように、ゆっくりこっちへ歩いて来た。
 ――軽くだが、左の足を引きずっている。
 悪いことをした、と思った。彼女は走り回ることができないのだ。
「……バスケット、やったことないの?」
 女の子は、こくんとうなずいた。
「じゃあ、一緒にやろうよ」
 僕は女の子の背を押して、ゴールの前に立たせた。
「いいかい? 右の足に重心をかけて、こう押し出すように、ボールを投げてごらん」
 彼女は僕の言う通りに、ボールを投げた。
 ゴールには届かず、その下で弧を描いて落ちた。
「惜しいな。もう少し、上のほうに投げてごらん」
 ボールを拾ってきて、僕はまた女の子に渡した。
 何回か、女の子はフリースローを繰り返した。
 最初はいやいや、やっているようだったが、何度も投げているうちに、表情が真剣になってきた。
 手を貸してやりたかったのだが、それでは彼女が満足できないだろう。とにかく、応援した。
「もう少し。――そう、腕を思いっきりのばして」
 十何回めかに女の子が放ったボールは、大きな軌跡を描いて、すぽん、とゴールの輪にはまった。
「ほら、できた」
 僕が言うと、女の子は初めて笑顔になった。額のあたりがうっすらと汗ばんでいる。
「ドリブルシュートも、やってみようか」
 彼女は、うなずいた。
「歩く速さでいいんだよ。こうやるんだ」
 僕は一回、ドリブルシュートをゆっくりとやって見せて、ボールを渡した。
 彼女は、少し足を引きずりながら、手まりのようにボールを突いて歩き、ゴールの下までたどりついた。
「そこで投げ上げて」
 ジャンプはできなかったが、女の子がせいいっぱい手を伸ばして投げ上げたボールは、輪の高さまで上がった。
 僕は、脇から、そのボールをゴールに入れてやった。くるくると輪の中でボールが回り、すとんと落ちた。
 ――拍手が聞こえた。
 振り向くと、いつのまにか、子どもが何人か集まって、体育館の隅で、僕らの動きを見ていた。
「お姉ちゃんがシュートしたの、初めてだよな」
 ひとりが言い、みんな、うなずいた。
「ゆっくりやれば、できるんだよ」
 僕は言った。
「君たちも、仲間に入ってくれる? 試合、しようよ」
 子どもたちはうれしそうに立ち上がった。
 僕を入れて、全部で十二人いたけれど、別にかまわないだろう。
 足の悪い女の子は、僕のほうのチームに入れた。
「いいかい。走っちゃだめだよ」
 僕が言うと、
「どうして?」
 小さい男の子がきいたのを、隣の子がげんこつで、ごつんとやった。
「ばか。お姉ちゃんもいっしょだろ」
 ――とてものんびりした、バスケットボールが始まった。
 試合をしているうちに、女の子の顔には生気が見えてきた。白い顔が、赤くなってくる。血が透けて見えるようだ。
 子どもたちも、女の子を特別扱いはしなかった。パスを回す。女の子は、抱えるようにボールを受け取り、走らない子どもたちの間をぬって、シュートする。そのたびに歓声があがった。
 たぶん彼らは、女の子が好きなのだ。
 けれど、女の子を仲間に入れる方法を知らなかったのだ。
 歩いてのバスケットだったけれど、時間がたつと、さすがに疲れた。
「ごめん。休憩」
 そう言って、僕がコートの真ん中に座り込むと、子どもたちは、そばへ寄ってきた。
「おじさん、何をする人?」
「写真を撮るんだよ」
「どんなの?」
「うん。建物を撮っているんだけどね。別に、他のものでもいいんだ」
「僕たちも撮ってくれる?」
「いいよ」
 僕は微笑んで、カメラを出した。
 そのとき、スライドフィルムがばらばらと落ちた。
 目ざとい子が見つけて、もう傾いた陽に透かしてみる。
「何? これ」
「海だよ」
「これが海かあ……」
 子どもたちは寄り集まって、小さなフィルムに目をこらしていた。
「君たち、海を見たことがないの?」
 きくと、いっせいにうなずいた。
 今でもそんな子がいるんだ……。
 僕は思いついた。
「スライドのプロジェクターはあるかい?」
「何? それ」
「分からないかな。写真を壁に映して見る機械だよ」
「あ、幻燈機のこと」
 子どものひとりがうなずいた。
「それなら放送室にある」
「あと、白い紙か布があるといいな」
「ぼく、取ってくるよ」
 男の子がひとり、立ち上がって、校舎のほうへ走っていった。

 海のスライドは、漁村にいる間に現像に出して、もう上がってきていた。早く結果を見て、足りないものやまずいものがあったら、撮り直しをしようと思ったからだ。
 スライド用のフィルムは、「マウント仕上げ」と頼むと、ひとコマずつ切り離され、紙の枠にはさまれて、できてくる。そのままプロジェクターにかけることができるのだ。
 子どもが持ってきたプロジェクターは、たしかに『幻燈機』と呼ぶしかないような古いもので、枠のサイズが合うかどうか心配だったが、かけてみるとぴったり合った。
 コンセントは、体育館の床に埋め込まれたしんちゅうの丸いふたを起こすと、見つかった。
 模造紙を壁に貼り、僕は幻燈機をセットした。
 あたりは暗くなってきたが、映写にはちょうどいい。
 子どもたちは、模造紙のスクリーンの前に集まった。女の子も、体育館の床にきちんと座っている。
 懐中電灯をたよりに、僕はスライドを準備した。
 ついでに、小型のラジカセも出した。
 ラジカセには、海の音が入っている。使えるかどうかは分からないが、劇団の人に、いちおう録ってみてくれと言われたのだ。
 海の音をスピーカから流し、僕はスライドを映した。
 ため息のような声が、子どもたちの口からもれた。
 僕は次々に、スライドを入れ換えた。岩に当たって砕ける波しぶき。どこまでも続く砂浜。漁網を修理するおじいさん……。ざあっという波の音が、高い天井に響く中で、小さく鮮やかな海が、そこに映し出された。
 ……フィルムが終わってからも、子どもたちはしんとして、白いスクリーンを見つめていた。
「海……って、こんなふうなんだね」
 ひとりが言った。
「ほんとうは、映画だったらよかったんだけれど」
 僕が言うと、その子は首を振った。
「ううん。これでじゅうぶんだよ」
「――ありがとう」
 それまで口をきかなかった女の子が、僕に向かって微笑んだ。
「私たちに、海を届けてくれて」
 いつのまにか、体育館は夜に包まれて、懐中電灯の光だけがぼんやりとあたりを照らしていた。
「電気、つけて」
 僕が言うと、女の子は首を振った。
「だめ、明かりは。つけてはいけないの」
 なぜなのだろう。だが、女の子の表情はきびしかった。
 僕は、話をそらした。
「でも、海なんて、汽車ですぐ行けるよ」
「ううん」
 女の子は、ちがうというように首を振った。
「私たちは、山の向こうへは行けないの」
「どうして?」
「そう決まっているの」
 僕には、どういうことか分からなかった。
「……もう、時間だね」
 女の子は淋しそうに言った。
 子どもたちも、どこか哀しい顔をしている。
 不意に――。
 乱打される半鐘が、鳴り響いた。
 同時に、体をゆるがすような、重い轟音が聞こえてきた。
「あれは?」
「みんな、外へ出て」
 女の子が、静かな声で言った。
 子どもたちの後について、僕も校庭に出た。
 見上げた夜空から、炎の切れはしのようなものが、無数に降ってくる。
 水田の向こうで、炎を浴びた村は燃え上がり、校舎の後ろの森も、火の手を上げ始めている。
「火事だ! みんな逃げなくちゃ」
 僕は叫んだが、子どもたちは動かず、立ちつくしていた。
「急いで! 森のほうがまだ、火が少ない。あっちへ行くんだ!」
「――だめ。私たちは、あの山を越えられないの」
 女の子が、首を振った。
「何を言ってるんだ! みんな、死んでしまうじゃないか」
 すると彼女は微笑みを浮かべた。僕はその笑顔を、一生忘れないだろう。
 それは、ひとりの少女ではなく、何かとほうもなく大きなもの――自分の運命を知ってしまった人間の笑顔だった。
「……もう、いいの」
 子どもたちも、うなずいた。その顔に、燃えさかる炎が照り映えていた。
「あなたは、私たちに海を見せてくれた。それでじゅうぶん。……さあ、あなたは、あなたの世界へお帰りなさい」
 僕には意味が分からなかった。なぜ、空から火が降ってくるのかも、考える間がなかった。
 けれどとにかく、逃げなければならない。
 女の子を、むりやり横抱きに抱えて、僕は、学校の裏手の森へと走った。
「むだだから、やめて」
 彼女は言ったが、僕は走り続けた。
 後ろを見ているひまはなかった。子どもたちは、自分で走れるはずだ。
 森の樹々にも火は燃え移り、いたるところ、オレンジの炎を上げている。
 火の粉が降ってきたが、熱いと感じる余裕さえなかった。
 僕は走り続けた――。

「お客さん。……お客さん」
 声をかけられて、はっと気づいた。
 駅員の制服を着た男が二人、こちらをのぞきこんでいる。
 僕は、午後の陽ざしが射し込む、止まった汽車の座席に、ひとり座っていた。
 ――はっとした。
「そうだ、あの子は? 村は大丈夫ですか?」
「あの子?」
 ふたりの駅員は、顔を見合わせている。
「お客さん、ずっとひとりで乗ってたようだったけど」
「そんなはずはないよ。女の子がいたでしょう? あの火事はどうなったんですか? 空から火が降ってきて、家も森も燃えて――」
 そこで僕は、何かがおかしいのに気づいた。
 言葉を切って、窓の外を見た。
 ホームの向こうには、ダンプカーの走る街道があり、コンビニエンスストアの看板が見える。一軒、リゾートマンションらしい、高い建物が見える。ごくふつうの、まぎれもなく今の、田舎町だ。
「……ここは、日取谷じゃないんですか……?」
「あんた、日取谷へ行って来たのかね」
 歳をとったほうの駅員が、驚いた顔になって言い、それから分かったというようにうなずいた。
「あそこには、駅はないんだよ。村も、ない。みんな、戦争で焼けてしまったんだ。だからもう、線路は通っていないんだよ」
「そんな――だって僕は、確かに汽車に乗って駅へ――」
「嘘をついているとは思わないよ」
 年輩の駅員は、またうなずいた。
「八月の十三日、ちょうど空襲のあった日になると、どうしたぐあいか、あの村にたどり着く人がいると言うんだ。村は昔どおりに――いや、少しずつ新しくなっているらしい。けれども、必ずその夜のうちに燃えてしまって、そこへ行った人は、知らないうちにどこか別の所へ飛ばされて、二度とは村へ入れないそうだ。この駅にも、そんな人が何人か、たどり着いたことがある。ちょうど、あんたのようにね」
 僕はぼんやりとたずねた。
「……空襲で、村の人は、誰も助からなかったんですか」
「ああ。ひとりもね」
 僕にはやっと分かった。女の子が言ったことが。
 どうしたところで、助けることはできなかったのだ。それは、起こってしまったことだったから。
 僕は目を閉じて、あのたばこ屋や、学校、子どもたちの顔を思い浮かべた。

 東京へ帰ってから、僕はあの村で撮ったフィルムを現像してみた。
 予想を裏切って、そこにはちゃんと村のようすが映っていた。あの体育館も、駅の建物も、新しいものは新しく、古いものは古く。
 少しずつ新しくなっている、そう言ったっけ。
 ただ、やはりそこに人間の姿は、ひとりもなかった。

 僕はもう一度、あの村を訪ねてみたいと思った。
 二度とは行けないと言うし、たとえ、たどり着いたところで、何もできないのは分かっている。
 けれど、どうも、何かを忘れてきたような気がした。
 それが何だったのか、しばらく考えていたのだが――。

 ……九月のある日、ふっと気がついた。
 僕は、あの子を助けることばかり考えていて、言わなければならなかったことを、言い忘れたのだ。
 それを誰かが言ってあげない限り、日取谷の村は何度でもよみがえっては、同じ一日をすごすのだろう。
 もう僕は、行き着くことができない。
 誰か、もしも列車をまちがえて、あの村にめぐり会うことがあったら、この言葉を伝えてほしい。

 『あの夏は終わったんだよ。――ゆっくり、おやすみ』

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