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明日来るな、明後日だけ来い。

山で眠れなかった夜に私はこう書いていた。

『明日起こるだろう色々なことがまだ「明日」なのに、今日の私にも覆い被さってくる。ふざけるな。明日来るな、明後日だけ来い。』

この夜が憎くてしょうがなかったのに、とにかくこの夜が明けるのが怖かった。それでも朝が来てそしてその日にも夜が来て、この感情も忘れて私は今ここにいる。

 1ヶ月前に山で落ちた。死ぬのか、私、とか思う暇も本当はなかった。「怖い」というのは、物事の前か後の感情でその渦中にいるときには存在できないのだと思う。とにかくこの滑り落ちる身体を止めなければ、と脳を通さずに考えていた。じきに雪渓は終わり、身体とザックが岩場に突入したとき「落ちている」という感覚が痛みを伴って実感に変わった。体の部位にランダムで衝撃が加わり、そこが痛みとして認識される前にまた別の衝撃が走る。お願いだから、私が私としての形を保っていられなくなるような致命的な何かが起こりませんようにと祈っていた。
 そして景色が動画から静止画になった。止まった瞬間に恐ろしさが身体を一気に駆け巡った。四つん這いになって目を開けたら頭の上の方からぼたぼたっと血が落ちてきていて、それでも私は今生きている、生きているんだと無性に思った。


そこからの1ヶ月、私は私をうまく見つめることができなかった。大丈夫?みたいな言葉に、大丈夫じゃないなんて自分の口から答えたら、私の中のシステムが取り返しのつかないエラーを叩き出してしまいそうで、とにかく貼り付けた笑顔で無事を言い回った。心は全く無事ではなかった。いつでも泣き出しそうで、いつでも消えたかった。


山から遠かったある夜に私はこんなことを書いていた。

『宇宙には私1人で、そもそもずっと1人で、そしてなるべくしてそうなっていて自分のことを知れば知るほど自分が醜くてどこまでも自己保身が体の真ん中に居座っていて心がどうしようもなくて音楽もなくて真っ暗だ』

誰にもわかってもらえないし、そんな必要もないことだったはずだけど、やっぱり寂しかった。思い切り、圧倒的に、徹底的に、愚鈍に、安直に、短絡的に、観念の中で、身体を通して、ひとりだった。
山を始めて、自分の弱さにより山で落ちてから、山に関わるもの全てが怖くなって、ああ全然向いてないんだと思った。自分の弱さと向き合って、死に物狂いで前についていける心が残っていなかった。すごく悲しかった。私は山が大好きなはずだった。

ある友達にこう言われた。
「落ちるべきだったんだよ」
脊髄反射でズキッとしたがこの痛みは不思議とドロドロしていなかった。私の汚いところも素晴らしいところも理解してくれるこの人が言うのならそうなのかもしれないと思った。私は私のせいで落ちて、そしてその衝撃を一身に受け止めた。事実はそれだけで、そこから派生した感情や、その後の行動全ては私に責任がある。強い人に甘えること、自分の弱さを強い人に預けること、これが私の一年間の結果で、結局のところ最初から私は自分で自分の荷物を背負う覚悟がなかったのだと思う。強さが何かもわからないけど自分が弱いことだけはずっとわかっている。憧れ続けたかっこいい人間はいつまでも憧れのままで、距離は遠ざかるばかりだった。



この文章の終わり方がわからない。自分の中でまだ決着がついていないし整理もままならない。ただこれを自分の中に留めておくには大きすぎる感情だし、誰かと対峙して話すにはポップでもキュートでもインタレスティングでもないから、とにかく全てのものを受け入れてくれる文字にした。あーもうなんか全然違うって毎日思ってるよ今も。誰が言ってくれなくても、私は強くも優しくもないしずっとダサいので。それ本当に知ってるから。また時がすぎたらここに戻ってきて、自分の形を確認しようと思う。それでは。


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