絶望人生から大逆転!人生を”ごきげん”にできた私の話

はじめまして。こんにちは。
人生をごきげんにしたい人のための寄り添い心理カウンセラーの
葉山 なつです。



年齢を言い訳にしない、過去の自分を全部抱きしめ、まるっと受け止める。
そして、自分らしく生きるためのサポートをしています。

早速ですが、私の自己紹介をさせていただきます。

最後まで読んでいただけると嬉しいです。

現在、私は別のお仕事をしながら、オンラインでカウンセリングを
させていただいております。


31歳の娘と13歳の猫🐈と暮らしながら

50代になって、今までいろんなことを諦めていた自分を取りもどすべく
自分の人生の最期を後悔することなく生きていたいと毎日を過ごしています。

そして
私の人生において、今が一番幸せで充実した毎日を過ごしていると感じています。

カウンセラーになるまでの私は、エキサイティングな人生を過ごしてきました。

今でこそ明るくお話しできますが

最近まで人生ってどうしてこんなに辛いことばかりなんだろうと思いながら、たくさんのことを自分なりに乗り越えてきました。

そのおかげで過去に経験したことは私にとって、今は財産になりカウンセラーになるための勉強だったと感謝しています。


私は、病弱でパチンコ好きの父
毒親・愛着障がいのある母のもとに一人っ子として生まれました。

小さい頃から
・一人っ子だから家を継ぐために養子をとらなければならない。
・一人っ子だから親の面倒を見なければならない
・周りの人が見ているからちゃんとしなければならない

〇〇しなければならないという価値観のもと育てられました。

父は、体が弱く私が3歳くらいの時から入退院を繰り返していました。
小さい頃、母に連れられて父の入院している病院に行っていたことを覚えています。

父との思い出は、あまりなく癌を患って亡くなる前
在宅でターミナルケアをしていた際、体を拭いてあげたときに「すまんな」という言葉を私に言ってくれた事と孫二人を大事にしてくれたことしか印象にないというのが本音です。

父は、母から多くの暴言を浴びせられ、また、自身が体が弱いということに気負いを感じ母に何も言い返せなかったのか不明ですが、家族の会話という会話は私の家にはありませんでした。


母は、今で言う典型的な毒親、愛着障がいを持っていて父や親族との関係がうまくいかないモラ嫁、(モラ夫があるからここではそう呼ばせていただきます。)そして診断されたわけではありませんが、統合失調症のような気質でした。

(※愛着障害とは、乳幼少期に何らかの原因によって養育者との心理的な結びつきがうまく作れないことが原因で、対人関係などトラブルが生じる状態です。)

一人っ子の私に、幼い頃から過干渉・愛着障がい
何をするにも「世間の人に笑われる」が十八番。

「ありがとう」「ごめんなさい」が言えない。
自分が常識人間と思っている勝手な価値観。
昨日と今日いうことが全く違う。
そのため、私は毎日を迷いながらビクビクして過ごしていたことを記憶しています。

外に出れば子どもながらに周りの目を気にし
家に帰っては、母の目を気にして毎日を過ごしていました。


また、父のことを「私は好きな人と結婚させてもらえなかった、仕方なく結婚した」と
何かあるたびに幼い私に言い続け、その後に続く会話は
親族の悪口、私の友達の批判、学校の先生の批判、ご近所への不満、この人には楽しく話せることがないのかと思っていました。

また、お友達のお家は家族そろって笑いながら話をし、楽しそうにしている姿が羨ましく感じました。

私の家には笑うと言うことがなかったから・・・。

私は、家でいつもひとりぼっちでした。
「一人っ子っていいね」という言葉が一番大っ嫌いでした。

小学校の頃、母から聞いた
「子どもを産まないと世間から笑われるから産んだ」と言われたこと。

望まれて生まれたんじゃないんだ。と一瞬のうちに感じました。
悲しいというより落ち着いてその言葉を受け取ったように覚えています。

私は、その日以来、家族という形に疑問を持ちました。

家の中では、母が主導権を握り母の価値観で物事が進んでいく。
何か疑問があって尋ねると、「何も知らないくせに黙りなさい」と
言われ、その後は話してもらえなくなる。

窮屈な毎日の中で、私は、

何のために生まれたのだろう。
生きている意味はあるのだろうか。

小学生の頃から私の中の課題でした。

私は、HSP気質のアダルトチルドレン。
屈折した家庭の中で、人間形成もうまくできず周りの目を気にして言いたいこと、やりたいことも諦め、自分という存在を殺していました。


学生時代もいい思い出もなく、中学校では1年生から部活の仲間で一番仲のいいお友達を
最終学年でいじめにあい奪われるという悲しい出来事があり、
人を信じることができなくなってしまいました。

しかし、唯一の心のよりどころとして
中学校の頃、担任の女性の先生と交換日記をしていて、
その先生から「背が高いのでモデルになったらいいんじゃない」と言われ、
密かにモデルのオーディションに応募したら、まさかの1次審査の合格。

今のようにメールで届くのではなく、郵便で届く時代。
その夜、永遠と母にお叱りを受け、最初はオーディションの話だったのが途中から先生の批判になり、強いては父や他の不満の吐き出しに付き合わされるという、本当に話もきちんと聞いてくれない親だったなと思います。

「あなたには無理、できるわけない」と言われるたびに、
自信をなくしやる気もなくしなぜ、生まれてしまったのか後悔するようになりました。

私は小学生の頃、水泳が大好きでした。
泳げなかった私を、一週間で泳げるようにそして競技会に出場できるよう指導してくれた先生が、
「人はやればできることはたくさんある」と教えてくれました。

実際、その通り泳げなかった私が泳げるようになったのです。実体験したのです。

なのに・・・

道徳の時間、親は子どものことを思い夢を叶えるために一生懸命働いてくれているということを学びましたが

そんなこと理想なんだと冷めた気持ちで学生時代は過ごしたことを覚えています。

自分を責め自分の存在なんてこの世にないという気持ちが
ますます大きくなり、「いつ死んでもいいや」と思うようになりました。

大学に入って、正義感が強かったので婦人警官になりたいと思い、とりあえず報告したところ案の定、「危ない」と理由で却下され、
安定した企業で事務仕事をすればいいという母の希望どおり大手の電機メーカーに就職しました。

会社員時代は、自分でも信じられないくらい評価され女性初のSEにも選ばれたくさんの経験をさせていただきました。
HSP気質がよい方に働いたのだと思います。
周りの状況を把握し、よく気がつく気遣いの人になっていました。


【寿退社】

この言葉は、もう死語になっていると思いますが昭和の時代は、結婚すると会社を辞めるということが当たり前でした。

私は、大学時代に知り合いお付き合いをしていた方がいたのですが、就職を機に諸事情でお別れをしました。

この会社に入って、同じフロアで働いていた方とお付き合いすることになり、そして結婚式することになりました。

私の結婚相手の条件は、養子に入って家を継いでくれることでした。
お相手の方は、長男でしたが下に弟がいるということでいろんな揉め事が
ありましたが了承してくださいました。


私は、自分が育ってきた家庭環境のような家庭にしたくない。
母のように、子どもの心を奪い乗っ取るような親にはなりたくない。
そんな思いを持っていました。

結婚してからは、親と離れたことによって気分も少し楽になりましたが、
ここでまた、私の前に壁が立ちはだかってきました。

子どもができたら苗字を変えるという約束で、それまでは元夫の姓を名乗っていましたが
子どもができたことによって養子に入ってくれた元夫は、苗字を変えることに難局を示し、いろんな問題が勃発しました。


元夫は、休みの日は遅くまで寝ていて
起きればパチンコ、朝早ければゴルフに行き帰りが遅い。

そのことで、話をすると「誰に食べさせてもらっていると思っているんだ」
「家にずっと居れるのは誰のおかげ」と言われ、

そして気に入らないことがあると私を無視するといった家庭状況になり
子どもができても、その状況は変わりませんでした。

やっと、親と離れて自分の家庭を幸せに暮らしたいと思っていたのに。
お付き合いしていた頃は、こんな人じゃなかったのに。
子どもが好きといっていたのに。
といろんなことが頭を駆け巡りました。

今まで辛いことも悲しいことも
私が我慢してその場をしのげるのなら我慢しようと思っていましたが
状況はエスカレートする一方で歯止めが効かなくなっていきました。

私の母からは、子どもが生まれたんだから早く姓を変えること、そしてその子が家を継いで行くから実家に帰ってくるように催促をされる。
元夫にその話をすると、無口になるそして帰りが遅くなる。

悪循環が続きました。

そして子どもが2歳のお誕生日になる前に、姓変更と実家への引っ越しが決定したのです。

私は、どちらにしてもお先真っ暗。

実家に戻って二世帯で暮らしても 
親から私の家庭の干渉が始まり揉めるのは目に見えていました。

しかし、もし親と住むことで元夫が変わってくれたらという希望もありました。


実家へ引っ越し
時間もたたないうちにその希望はもろくも崩れ去りました。

私が二人目の子どもを出産した頃から、
今度は、母と元夫による私への攻撃が始まりました。

母は、私のことを悪くいう、
それを聞いた元夫は
お前が悪いからお母さんはお前を怒るんだという。
そして父は、黙ったまま。

子育てに関しても、私は母のようになりたくないという強い思いから
母とは真逆のことをして育てようと決めました。


そんな折、元夫の衝撃的な事実が判明したのです。

会社で積立をしていたお金を使ってしまい残高ゼロ
消費者金融から督促状が届きました。

長男3歳、長女1歳。
これからの教育のためと思い積み立てていたお金。

帰宅した元夫に聞いてみましたが、
「欲しいものがあったから」
「ゴルフ代」などに使ったということでした。

どうして相談してくれなかったのか問いつめると、
「俺が稼いだお金」と言われ、
もう、これ以上一緒にいることはできない。

元夫に変わることを望んだ私が間違いだったと気づきました。


私の今までの人生は、母親に乗っ取られ、ただ生きているだけ。
元夫には幸せにしてもらおうと思っていた人任せの人生だったことに気づいたのです。

子どもの前では辛い姿を見せることはできません。
夜、一人になった時泣いている姿を長男に見られてしまい

「お母さん、泣かないで。僕お母さんだけでいいよ」と
言われたのです。

きっと子どもは感じ取っていたんだと思います。


その言葉で私は、「離婚」という文字がはっきり見えました。


子ども二人を養っていくためにはどうすればいいか。
小学校に上がる長男のためにどうすれば最善になるか。

専業主婦だった私が再就職するには・・・
ひとり親家庭になったらどんな補助が受けられるか
いろんなことを調べました。

その時は不安より、自分が何かに向かって行動しているということがあったので充実していました。

そして、元夫に「離婚」を告げました。

元夫はその日から家には帰ってきませんでした。
その1年後、調停離婚が成立。
(この時も調停のノウハウをたくさん調べて、弁護士をつけることが有意だとわかりました)

数日して帰ってこない元夫のことを両親が知ることとなり、

その日以来、母から私へ
「この家は私の家(母の)だから離婚なんてする娘は出ていってほしい、世間に笑われる」と言われ子ども二人を車に乗せちょっとした着替えを持ち家を出ようとしたことを鮮明に覚えています。

その時、今まで何も言わなかった父が「出ていく必要はない。この家は俺の家、何にも言わないで住んでたらいい」と私に言ってくれたのです。


しかし、その言葉を信じた私はまたもや泥沼にはまってしまったのです。



毎日、いざこざがあり生きている心地はなく、また我慢我慢の日々が
始まりました。

父の言葉は嬉しかったけれど
父は孫(長男)と離れたくなかったから言ってくれたことを知り、
私ではなかったんだと改めて実感しました。

長女がが3歳の誕生日を迎えた日に事件が起こります。

お誕生日のお祝いをして、ケーキを食べようとした時母は、私の娘に

「〇〇は、橋の下で拾った子」と言ったのです。

その場が、一瞬凍りつきました。

息子が、「えっ、〇〇は橋の下で拾ったん?」と私に聞き返してきました。

私は、すぐに「違うよ、〇〇はお母さんが産んだんだよ」と息子と娘に話しました。


なぜ、何も知らない子どもに冗談でも言ってはならないことを言うのか、
いい歳をして本当に情けないと感じました。

どうして、母は、こんなに敵を作りたがるのか私には理解できませんでした。

同居して
いろんないざこざが増え私が全部抱えて我慢していたら収まると思っていたことが、私が何も言わないことで周りは助長し悪くなっていく。

子どもが幼稚園に入園するのを機に、私は仕事につきました。
9時ー17時のお仕事。

そこで、私のことを気にかけてくださった方が、
「なつさんは、お母さんの操り人形だね。お母さんはあなたのことをペットみたいに扱っているように見える」と言われたのです。

私が常日頃、思っていたことを直球でぶつけてきたのです。

その方は続けて、
「なつさんは、一人っ子で小さい時から何でも一人でしないといけない、人を頼ってはいけない、人は裏切る。自分のしたいこと言いたいことは自分の中にしまって、外に出さないほうがいいと思って今まで生きてきたんじゃないのかな、しんどくない?」と私に問いかけたのです。

私は、涙があふれて止まらず声を出して初めて人前で泣いてしまったのです。

本当にその方の言うとおりで、

兄妹がいないから何でも一人でしていくこと。
誰も頼ってはいけない。
自分のしたいことしてはいけない。
言いたいことは言ってはいけない。

何もかもが他人軸。
何一つ自分を大事にできていないこと。
に気づいたのです。

しかし、私は子どもが成人するまで、自分を制限し子ども優先の年月を過ごしました。


そして今現在は、子どもも成人し独立してくれたので自分自身の人生の最期を後悔しないようにやりたいことをやって楽しむこと、ワクワクする毎日を過ごせるように行動しています。



長い年月、自分を苦しめていたものは、自分のものの捉え方とHPS気質の繊細さアダルトチルドレン特有の心苦しさ
そして一番大きなものは母の存在でした。

人を変えることは完璧にできない
しかし自分を変えることは自分ができる。

今までの私は、自分の人生を誰かに変えてもらおうとか、時間が経てば変わると思っていたのです。

離婚を決意した時、辛かったけれど
これからは自分で何もかも決めていける、責任を持って子どもを育てる。


そして私は、母のような子育てをしないと決めました。



1日たりとも後悔しないで過ごしたいと願うようになりました。


自分を変えるために、コーチングを勉強したり自分自身がイライラする気持ちが強かったので、アンガーマネージメントの資格、メンタル心理カウンセラーの資格を取得し、自分自身の心と土台を整えました。


アンガーマネージメントでは
自分の『怒り』の感情の根本的な原因を知ることができ、自分の思考のクセも理解することができました。

『怒り』については、心の奥にある自分の気持ちと向き合うことで、イライラの原因を紐解いたおかげで、今まで悩んでいた人間関係も良好になり穏やかに過ごせるようになりました。

ここまで読んでくださっている方で、


今、家族関係や自分の辛さ
しんどさで立ち止まっている人がいるなら
たくさんの年月をその辛い思いを抱きしめたまま生きている時間より
自分が変えていく決心をし行動に移すことによって自分の人生が変わっていくということを実感してもらいたい。

自分自身は、いつでも変えることができる。
この瞬間から変えることができることを知ってほしいという想いでいっぱいです。

時間は有限です。

自分を動かせることができるのは、自分しかいないのです。

この先も
このまま悩み続ける人生を選択するのか

いつか
変わると誰かに自分の人生を預けて生き続けるのか。


1人では、くじけそうになったり立ち止まったり諦めてしまうことも
誰かが隣にいてサポートすることで
この先の人生が
最短で変わっていけるとしたら
あなたは
これからどんな人生を歩みたいですか?


勇気を出して1歩踏み出すことで
あなたの人生が変わって
もっと
自分に素直に、自由に
我慢しないでごきげんに生きていい。

自分の幸せを第一に考える。
という思考に変えていけたら
どうなりそうですか?


私自身もそうした悩みを経験し
乗り越えてきたからこそ
もっと悩んでいる女性の心のケアをして
幾つになっても活き活きと
輝ける人生を歩めるよう
心理カウンセラーとして
サポートしていきたいと思っています。


もう、悩む必要はありません。
人生は、この瞬間から変えられます。


あなたの人生は
あなたが主役です。
自由にごきげんに生きることができる。


あなたの心が軽くなって
自分らしく
幸せな人生を歩んでいけるサポートができたら幸いです。

最後までを読んでいただき、ありがとうございました。




                      








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