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けものフレンズの秀逸さ

けものフレンズ最終回直前振り返り一挙放送を観た。Twitterでお噂はかねがね、といった感じで、おおよそのあらましはTLを見ていれば自ずとわかるという状況だったのだが、このほどやっと実物を観たというわけだ。

ストーリーが面白いかどうかという話はこの際措こう。いや、はっきり言ってしまえば面白くはない。ただただサーバルちゃんたちフレンズとかばんちゃんのかわいらしくも健気な振る舞いを鑑賞するアニメといえばそれまでとも言える。子供向けの教育アニメと言われればそれも頷ける。

しかし、やはりこれだけの人気を博すことはある、優秀なアニメなのだ。
伏線がどうであるとか、世界観がどうであるとか、そういったことは考察班にお任せしよう。そういったツイートが流れてくるたびに「けものフレンズ、すごいらしいじゃないか」と思ってはいたし、そういった部分が視聴者の心を掴んでいるのだろうと漠と思っていた。
だがわたしが関心したのはそこではない。魅力的な作品づくりにおいてキモになるポイントの一つが「情報を”開示しない”こと」であると以前述べたが、その点に関して本作は非常に巧みなのだ。

第一話でサーバルちゃんはさまざまの概念を提示する。フレンズ、サンドスター、セルリアン。これらは視聴者にとっても、記憶のないかばんちゃんにとっても未知のものだ。そして、世界観を提示するのに重要なファクターでもある。
だが、けものフレンズはこれらについて、一切の説明を怠る。もちろん意図的に。そしてそのことを、未知の概念に触れたはずのかばんちゃんも追求しない。
だってそうだ。かばんちゃんは自分が何を知らないのか知らない。彼女の聡明さに敬意を表して言い換えるならば、何も知らないということを知っているといえばいいのか。記憶がないのだから当然だ。かばんちゃんにとってはジャパリパークが何であるのかも、さばんなちほーがどういう場所であるのかも、そして自分が何者であるのかも、全てが未知のものだ。サンドスターやセルリアンについても同じこと。かばんちゃんが持ち合わせているわずかな常識からはいずれも逸脱しているという点でまったく並列のものだ。われわれがサバンナと聞いてピンとくるのとは違う。だからかばんちゃんはどれを特別に追求することもない。
同様に、サーバルちゃんにとってはジャパリパークの概要もサンドスターやセルリアンも並列に自明のものだ。そして、かばんちゃんが何を知らないのかを知らない。だから必要最低限の説明しかしようとはしない。
しかし我々にとってはそうではない。だから視聴者は話に置いていかれるしかない。かばんちゃんやサーバルちゃんが何かに触れたときの、それに対してのリアクションでしか新たな情報を得ることができない。だからこそ我々は彼らを追いかけようという衝動にかられるのだ。続きを観よう、観なければと思うのだ。

もちろん、完全な置いてけぼりをくらってしまえば観る気をなくさせてしまう危険がある。そこで登場するのがラッキービーストだ。彼(?)が、クリティカルな部分に触れない範囲で情報を与えてくれるからこそ、我々は安心して物語を追うことができる。
だからといってラッキービーストの存在が陳腐で説明的にならないのも凄い。説明を述べるのみならず、その挙動でもってジャパリパークのかつての姿を匂わせるという絶妙な役割を過不足なく演じている。のちにミライさんの記録を再生するところでは完全なキーパーソン(?)になっている。単なる解説要員キャラかと思いきや…という見事な変身。

見せ方の巧さはほかにもある。ハカセがヒトの特徴を述べるとき、その大半がフレンズにも当てはまっているのに、彼らが違和感を覚えないということへの違和感——フレンズがヒトを模した姿をしているということを知らない彼らのもつ圧倒的な異郷感。ヒトという観念のない世界でヒトの姿をとっているという不気味さを突きつけられる恐怖。そしてそういったおぞましさと、愛すべきキャラクターたちの魅力のバランス。それらすべてが視聴者の興味を煽ってやまない。

いやあ、けものフレンズ、よくできている。最終回が楽しみだ。

お小遣いください。アイス買います。