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ここ最近のわっちの体験|シアターワーク後のふしぎ時空移動体験|自分の器を溢れさせる


みなさん、こんにちは!


美濃は雨です。

つい先日まで初夏みたいに暑かったのに、今日はウールのセーターを羽織って、ストーブに火をつけてあたっています。畑へ行って草刈り予定でしたが、(土用ですが気にせず)予定を変えてのんびり過ごしています。

さて、3月には「小城弓子 またたきのは展」があり、4月には「えみおわす展」があり、またわっちの個人活動としては「みれい音のちいさな宇宙」という詩と音と音楽の配信という、やったこともなければお手本もないような世界をスタートして……とてもとても濃密な日々をすごさせていただいています。

あたり前のことかもしれないけれど、
なんだかこれまでと日々の感覚がまったく違うんです。

本当にその背景にはトランスフォーメーションゲームの体験があり、バースビジョンのセッションがあり、kaiさんのチャクラ講座や交流の体験があり、小木戸利光さんのお石さんとのであいがあり、「あたらしい自分になる本」シリーズ(現在3冊)の4作目が書けそうな勢いですが、さまざまな体験に支えられて、本当に、あたらしい感覚で2022年を過ごさせていただいています。

何かね、「ああ、もう、自分の解放は終わり」とか、「冷えは全部取れた」とか、「記憶が全部クリーニングされた」とか、「傷という傷は全部見つめた」とか、「自分と向き合う時間は十分もった」とかって、やっぱりないんじゃないかなあと思うんです。

あるテーマについては、大体目処がついた、ということはあるかもしれないです。

ただ、玉ねぎの皮むきなんてよくいうけれど、むいてもむいても次がある。

それが真実なのかなあと思います。「わかった」「気づいた」となってからが道でしょう、という気もする。


この春上記のような展示やイベントのほかに、6月に発刊させていただくルン・ルの植原紘治先生との対談を、わっち自身がまとめさせていただいていたのですけれども、先生って今、80代なんですね(わっちの父の2歳年下)。

「終わり」なんていわないものね。もっといったら「悟りました」ということをおっしゃらないんだなあ。

釈迦の弟子である植原先生は、「怠るな、続けよ」という釈迦の遺言をただただ日々続けておられる。365日休みなしに。

この対談は昨年の秋あたりから行われていたのですけれど、植原先生と密に(えへへ。別の意味でね^_−☆)お話できたことは本当に本当に本当に本当に、大きなことでした。とんでもない壮大さで肚がきまっているかたを目前にすると、こちらも肚が決まってくるものなのかもしれないです。

たくさんの古今東西の智慧、たくさんの方々からのご教示、そこからの気づき、そういったことで、わっちもまだまだ、クリーンニングしていくこと、向き合っていく傷、解放していく記憶があって、それらを手放していくことを続けていくだけだなとあらためて思っています。

ああ終わった、と思った眼前には、次なる扉が開かれているものですよね。

昨日のお話の続きでいうと、50歳と51歳は少し立ち止まるタイミングでした。

それは、はじめて死が見えたというか、肉体を離れる時から逆算するという思考が生まれた。考えたこともなかったんです。こう、全部空中に浮かせて、全部の可能性がいきられるままにして、ジーーーーーっと見つめる時間でしたでしょうか。本人はこれからどうなっちゃうんだろって感じですけれども、でも、豊かな時間ですよねえ。

本当に、自分が自分を見つめている時間ほど豊かな時間もないかなと感じる。

そうしてある時、「これだね」という感じで、着地がはじまる。


そうそう、話は少しずれますが、わっちの編集の仕方も似ています。ギリギリまで空中にボワーーーーーーーっと可能性を浮かせておいて、最後の2−3日で、ドワーーーっと着地させるみたいなやり方です。だから最後の最後で台割が大幅に変わることもあるし、何なら校了してからだって、粘りたい(昨今の出版事情だとそうはいかないことが多くて、好きにやる場合は自社に限られてきていますが。そう考えると出版界はますますリザルトパラダイム的なのかな。その中で作家の創作の中でプロセスパラダイム、コーズパラダイムをするしかない。ただ、わっちは編集作業っていうものはプロセスパラダイムでしかありえないし、コーズパラダイムに移行しているとも思うんですよねえ、、)

でも、こうやって書いていると、自分自身がグラウンディングしていないと、空中に浮かせたままにしておく(どこにどの企画が着地するかわからない状態にしておく)というのは、かなり苦しいことで、あるいは、不可能なことで、かなり胆力がいることだったりもするかなと思います。プロセス、コーズパラダイムには、胆力がいるんだね。

早く全部決めちゃって、決まったことを決まったようにやったら安心だものね。

でも、自分はそれだとすごくつまらなくて、イキイキできないですねえ。これは何かの病気かなと思うんだけれど、イキイキ病かしら、本当に、フレッシュ症とでも名前をつけたいほど、新鮮さみたいなものをいかに本や表現に入れるか、に注力しているような気がします。

誰もそんなこと望んでいないかもしれなくて、本当にこれは、自分の好みです。

そういうわけで、形骸化していくものとか、こう、漫然と行われるものについては逆に苦手なのかも。宇宙タイミング症といってもいいかもしれないです。こういう性格の自分には、本当に、2020年以降の世界が、生きるのには楽です。もう、先のことが決められないからですね。そうしてもっともっと、宇宙タイミングだけに、なっていけたらとも思っています。


さて! そんな思いが強まるのも、先日のシアターワークの体験があるからなのですが、シアターワークの当日、スタッフにあったら「みれいさん、か、か、顔が違う!!」と叫ばれ、インスタで写真をアップしたら、やっぱり「顔変わってるん!」といわれ、友人たちにも、「変わってたねー」と言われました。

でね! さらに翌々日、不思議なことがあったんですよ。

その日は、1か月前の福ちゃんのお母さんの誕生日祝いに、ohana農園さんに、苺狩りにいく予定だったのです。(コッキー小木戸利光さんも誘ったら、ぜひ!といってくださって一緒に行く予定でした)。小木戸さんをピックアップして、それから、母をピックアップして、農園に向かう。そんな予定でした。そうしたら、こんな感じでした。

1、運転する福太郎さんの車の鍵がない&携帯がない
2、そもそも前日からわっちの財布がない
3、福太郎さんの鍵だけ見つかる
4、そのままもう出発しようとして、コッキーこきどさんを迎えに行く
5、コッキーさんがいない(車ごといない)

・・・ここでしばし混乱・・・

5、美濃にいるかもと思い、あちこち探す(いない)
6、もう一度家に戻り、福太郎さんの携帯を探す。見つかる。
7、コッキーさんは、先に別の場所へ寄ってから現地に向かうとのメッセージが福太郎さんの携帯に入っている
8、コッキーさんとほぼ同時にohana農園さんに到着
9、イチゴを食べる
10、帰り道で、お財布が見つかった(お店にあった)とスタッフから連絡が入る

というようなことです。小木戸さんも同じ時間に忘れ物&なくしものをされたりしていたそうで、この日の午前中はすごかったです。

そうしたら、スタッフたちも同じ経験をしていて。
なんか「物品移動」的なことがあったというのですね。
こう、物の時空移動がすごいというか。
(これは、自分がパラレルを移動しているともいえると感じているのですが)

つまりわっちの考えはこうです。


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