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風まかせ〜ッ東京滞在記その2|この過渡期を生き抜くにはやっぱり台風の目のところにいるのがいい気がします

みなさん、こんにちはッス!


もろ秸っ子、祖味強めっ子、皇っ子のみなみなさま、
いかがお過ごしでしょうか?
(くわしくは一昨日のブログはこの動画を見てみてちょ)




今、わっちはYouTubeのフジロック動画を開けてみたら
ダイナソーJr.で! のけぞっているところだす。
(これを書いている今アンコールあたりくらい)

あーびっくらこいた、びっくらこいた!!
わっちの90年代というのは、なんというか、どの場面でも流行のメインストリームから外れていて、まわりの人たちは、それこそダイナソーとか、クラスの男子はニルヴァーナとか(ほんとーーーにみんな聴いてた)だったんだけれど、自分は、すっごく白けていて、オルタナティブロックをちゃんと聴いたりしたのは、2000年くらいだったんですよね。後からゆっくり聴いて味わったみたいな感じでした。
それでも、まったく聴いていなかったわけじゃなくて(どこででもかかっていたですからね)、ダイナソーの音楽が流れてきた途端、ぐらぐらぐらーーーーっとしました! ここはどこわっちは誰今はいつ!?!?! 

いやーーー、時間の不思議さが加速している2022年。90年代もまるで昨日のことのようだす。ね、ね、そう思いませんか? そう思いませんか? 全然2000年くらいの自分と変わっていない感覚もある。同時に前世のようでもある。不思議です。不思議でならないです、、、、とダイナソーJr.から脱線してしまいました。

さてさて! 2022年といえヴァ!!! ヴァヴァヴァヴァヴァ!
表現イヤーだよー(©️コッキー)なんでございますが、その意味がますます深くわかってきている7月の終わりを迎えています。

「表現する」って、どうしたって自分軸にならざるを得ないですものね。普段ブレッブレで(失敬)他人軸で生きていたとしても、仮に誰かのむっちゃ真似っ子な表現だったとしても、です、表現する瞬間というのは、「わたし」というものが行っている。あるいは、自分の内面にベクトルが向くという行為がベースにある。意識が外にむきっぱなしだと表現ってできないんですよね。

こう、たとえば、料理をしていたとして、ですね、そっぽ向いて、包丁で野菜切ってたら、うまく切れなかったり、手を怪我してしまったりしそうですよね? でも、ふつうに料理しようとしたら、まな板に目線を落とし、切る、ということに集中することになるわけです。
このような態度がむーーーーーちゃんこ今必要なんやなーって思うんです。

意味、伝わりますでしょうかねー。

写真を撮るとする。上記の例でいえば、ノーファインダーで撮ったとする。つまりはファインダー覗かずにシャッターを押すとする。それでも、その行為をしている、ノーファインダーで写真と撮影している、というのは、自分の意識がやっているわけで、ある種の集中がそこにはあるわけですよね。

でも、表現してなかったら……ものすごく、周りが気になる状態っていうか、周りの状況が自分に入ってきちゃうっていうか、、散漫というか、無防備っていうか、受け身っていうか、消費っていうか、いい意味での「ゴロゴロぼー」ではなくて、ぼやーっとしていると、ただただ知らず知らずのうちに周りに巻き込まれてしまいがちな今なのかなと。

で! 今、この世界の大転換期、変化がすごい時って、もう渦が大変なことになってるわけですよね。台風みたいに、ゴーゴーになってる。もう人はいいたいこといって、何なら人の数だけ「正しい」はあって、それがまたぶつかったりして、隠れてた感情がモロ出しになって、膿という膿が出て、もう、「ウッソでしょーー!!」ってことだらけ、まともにいきてたらグラングランになるようなことばかり……なわけです。混沌の台風みたいなね。

いや、よく、この国は暴動とか起こらないなあって思うんですよね。
和する、という国民性からくるものかなと思いますが、よくみんなじっとしているなってよく感じます。「うええええええええ!?!?!?! まじすかーーー!!!!」って裏返ったままの声で叫ぶようなことがもうあちこちで表出してますですよね。それで平気な顔してるっていうのも、何かが麻痺しているのか、「みなかったことにしよ」ってことなのか、酷すぎてだんまりを決め込んでいるのか。

ま、どんな態度や姿勢も立ち位置も視座もオールオッケーなんだと思うのですが、わっちの現段階で選択している、あるいは選択したい態度、姿勢というのは、台風の目のど真ん中にいることなんですよね。

そうです、ルン・ルの影響大です。植原紘治先生がおっしゃっていること、そのままといってもいい。台風の、渦の中央にいたら、凪ってるわけです。静かだし、平穏だし、高速である、と。

そうして、ただただ行き過ぎるのを待つ、という態度だったりもします。
また、その間、好きなことしとこーという姿勢でもあったりします。

それがね、その表現、に向かっている時、もっといったら、寝る間も惜しんでやりたいこと、食べることも忘れてやってしまうこと、あるいは、時間をすっかり忘れて取り組んでしまうこと、その渦中にいる時って、台風の目の、完全に凪ってる、無の場所にいるんじゃないかなと思うんです。最高の避難場所っていうかね。

そうしてその場にいると、自分にとって何が最善の選択なのか、とか、次にどこへ進んだらいいのか、がよくわかるような気がするんです。平静でいられるというか。冷静というか。冷めた目、冷めた頭で、世界を見ることができる。一昨日のブログのお話でいうと、のめり込まないで俯瞰できる、といってもいいでしょうか。

いや、ですね、たとえばです。今、何か一つとっても「どうして◎◎の真実についてわからないんだろう」って思ったとします。ずっとね、第6チャクラの空き具合の違いでそうなるのかなと思っていたんです。第6がぎゅっとしまってたら、騙されやすいし、真実がわからない。嘘が見抜けない。まにうけてしまう。特にその状態で恐怖心を煽られると、ますます、第6チャクラは閉じていって(おそらくですが)、ほんとうのことが全くわからなくなってしまって、外側のことに翻弄される。

と、思っていたのです。いや、そういう側面もあるかもしれないです。

でも、皇の時代の視点からみてみると


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