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世界をどう見ているか |編集講座の話


そして、2017年の開催声明では「生まれもった素質、環境、境遇」という多様な生があるにもかかわらず、現代社会は、「合理化と経済至上主義、大量消費型の使い捨て」となっていて、人々は「無理やり箱に収めたり、存在すら否定されたり、こうでなければ生きられない世の中」にあることを指摘した。さらに、この原因を「祟り神」に例え、それは「私であり、あなたなのだ」と説明した。(中略)この宣言では、私たちが画一的で効率優先の世界にあり、そこに合わせて社会も人も形作られているが、その原因は外ではなく、我々自身にあることを問うているのである。それゆえ、この自治的に運営されている音楽祭は我々の受動的な生へと揺さぶりをかけてくる。じじつ、橋の下世界音楽祭は、来場者も含め、参加するためのルールは最低限のものであり、自律的に考え行動することが推励されている。

『パンクの系譜学』(川上幸之介=著 書肆侃侃房=刊)より抜粋


みなさーん、こんにちは! 

昨日一昨日は、インスタライブでkaiさんとお話させていただきまして!
いやー、めっちゃおもしろかったです。
発達凹凸とチャクラとの関連についても
自力で、「こうかな」「ああかな」と探求するしかなかったのですが、
昨夜、kaiさんが少し触れてくださったことで、
また、ひとつ、大きな気づきがありました。

さらに、コメント欄もすばらしくて!

発達凹凸と被虐待者が酷似している? であるとか?
編集が、推測、イメージなど(もう一つ何でしたっけ、、)の鍛錬になるのではないか? であるとか?

むおおお!!! (コメントくださったみなさま、ありがとうございました!!)

そしてそして!
kaiさんが今回、第6チャクラのことに触れられまして!

わっちは、子どもの頃の自然のなかでのあそびが、脳の発達とものすごく関係があるのでは?と思っていまして、、、というのも、これは、会社をはじめて、スタッフの人たちと接するようになってわかってきたことなんですが、、、

外あそびを十分にしたかどうか
自然とたくさん触れ合ってきたかどうか
絵本などをたくさん読んだ、読み聞かせしてもらったかどうか
(想像力をたっぷり養ったかどうか)

みたいなことが、大人になってからの何かにとても関係しているんだなーと、、、
(あくまで狭い範囲での観察、、ということで、そうじゃない場合もあるかもですが)

だから、ちいさい頃に、勉強を詰め込んだり、身体を使ってあそんでいなかったりって、テレビづけだったり、自然不足だったり、、となると、ますます、大人になってからの凹凸を強めるのかな、その傾向が強くなっているのかなと感じたりもしています。

発達凹凸と被虐待者が似ているというご指摘もとても興味深く受け取りました。
わっちは、凹凸がある親が凹凸傾向にある子どもを育てるときに、ある種の大きな困難が生じるために、そこで虐待的なことがどうしても自然発生的におこってしまっているのではないか、と推測していたのですが、そうじゃないケースもあるのかもしれないなとか、、。

もっといったら、現代で生きるって、ものすごく便利になって、信じられないほどかつてに比べて安全にはなっているものの、あまりに自然から遠ざけられているという点で、どうしても「傷」を負ってしまうのかなとも感じています。

、、、と、凹凸話が止まらないですが、、

昨日は、kaiさんと、編集講座のお話もさせていただきまして!

こちらですね!

【第3回】穂高養生園&mmbooks合同企画
服部みれいの編集講座2024(オンライン) 「穂高養生園の本づくり」を通して


kaiさん、すごく編集講座を楽しんでくださっていて、、、kaiさんと話すと、また、自分へのフィードバックも凄くてですね、本当に昨日もお話ししましたけど

編集って、

・世界をどう見ているか の共有
・バラバラのものごとに軸をつくって提案する
・スポットライト、あるいは、角度をつけて、ものごとを捉える
・俯瞰する
・読む人の立場に立つ、そのイメージをする

こういうことがギュギュッと詰まっている行為なんだなと、、。
ふだん、もう無意識でやっているところがたくさんあるため、
自分にとって、ものすごく大きな振り返りにもなっていますし、
これから自分がどうしていくかを考えるための
大事な足場にもなっていたりします。

本当に、こう書いてくると、編集ってある意味では、独断と偏見、には違いなく!(たは!)
あくまで一回一回が「提案」であることには違いないわけですが、
何か、「提案」があると理解がしやすくなる。
こう、山に道がつく、みたいなことが起こるのかなと思うんですね。
それがすごく「道理」に合っていると、読み手はすごく快感がある。

料理でよく例えますが、

・味噌
・昆布出汁
・お豆腐
・わかめ
・油揚げ

このままではなくて、
これを統合して、
「おいしいお味噌汁」として、提案する

たとえばです。
上記の材料があるとして、別の料理もできますよね。

そうだなあ、わかめと油揚げは、炒め物にして、
お豆腐に、甘味噌を作って田楽風にして、、
これも、一つの「提案」なわけです。

世の中に出ている、本だったり雑誌だったりって、
こういう提案がしっかりなされている。しかも、しっかり、噛み砕かれていると
受け取る側は、とても読みやすい。
噛み砕かれていると、、、というのは、理解が深いかどうか、そして読み手への共感力が高いかどうか、に尽きると思います。

たくさん理解しているという視点があるかどうか。
読み手のことを心底考えている視点があるかどうか。
これによって、全然、現実の事象が変わる。
シュレーディンガーの猫、みたいな話といったらいいか???

「まなざし」ともいえるし、その「提案」であるともいえる。
いやあ、すごい人間的な行為だなとも思います。

(わっちは、編集者になって、3か月くらいの時に、「神みたいな仕事だ!」と思ってそのことを『わたしらしく働く!』という本で書かせていただいたのですが、


この本ですね、この本を読んだ、あるライターさんが、「神」って言っているところで、めっちゃ吹いたwみたいなことをおっしゃっていて、そっかそっかって思いましたけど、でも、白紙のなんでもないところから、「こうだ」って提案するって、やっぱりあいもかわらず神的な創造の世界だなと思います。

本当に、第2チャクラ的な胆力と、第3チャクラ的な自信みたいなものがないと、あるいは、第4チャクラ的な他者愛がないとならないというか。。。

これらのチャクラが弱いと、「こうだ」って決められないですよね。


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