置かれた場所で咲きなさいも真実だし、咲ける場所へ行きなさいも真実なのかも
みなさん、こんにちは!
昨夜、ここしばらく読んでいた、上記の抜粋をさせていただいています、
『パンクの系譜学』(川上幸之介=著 書肆侃侃房=刊)を読了しました。
いやー! おもしろかったです。
大変読み応えがありましたし、自分が現在どの場所にいるのか、の位置の確認にもなった(読者ハガキをすぐに出したい衝動に駆られたほどでしたが、まずはこちらに書かせていただきますね)。
わっちは、バンドの仲間から「服部さんがやろうとしているのは、結局は、クラスみたいなことなんじゃないか」といわれていたと記憶しているのですが(ちょっとニュアンスが違ってたらごめんなさい、ですが)、クラスほどドラスティックじゃないというか、あそこまでラディカルではないとは思うのですが、ものすごく大きな分け方? みかたをすれば、そうともいえるかもという気もします。
服装とか、音楽とか、そういったことが、いわゆるパンクとか、オルタナティブロック的ではないけれども、根底に流れているベース音は、間違いなく、この本に登場する数々のバンドのあり方だったり、イアン・マッケイがやろうとしていたことだったり(フガジも好きだし)と通底しているんだなーと(できているかはともかく)。部分的にはクラスも然り(移住や田舎での生活はまさにクラス的な流れには違いないです)。
昨年は、何の因果かクラスのドキュメンタリーを元旦に見て1年が始まるという年で、あの頃から、ずっとパンク女・ライオットガールの特集をしたいなとずっと考えていて、あちこちで、パンク女特集やろうと思っているといって、丁寧に分厚いお手紙(企画がいっぱい書いてありましたん!)をいただいたり、してきたのですが、この本は、その資料としても読みはじめたものでしたけれども(ライオットガールについても詳しいです。わっちはX-RAY SPEXがめっちゃ好きな時期がありまして!)、、、
(か! かわいい!! やっぱり好き!!!)
なんか、自分が自然に惹かれていたものの時代背景だったり、表現として表れてくるものの奥にあるものについて、あらためて考えさせられた読書体験でした。
そうそうこの本の最後がね、日本の橋の下音楽祭で終わっているところもかっこいいなーと。
わっちの民謡の師匠である、後藤直弘さんも、昨年亡くなる前年に、橋の下音楽祭で郡上節をうたわれました(現地で聞きたかった!!)。
とにもかくにも、自分がこれからどうしていくかについて考えるいい機会にもなりましたですね! すばらしい本をつくってくださった著者さん、編集者さん、出版社のみなさま、ありがとうございました!!
と!
ここからは、また、前日からの続きなんでござる。
EYUさん、シス姉さん、コメ愛感謝です。
首もげそうなぐらいうなずきながらコメ愛読ませていただきましたですぜい。
で!
昨日書いた凹凸って、特に、めっちゃ困ったことでもないし、「問題」ですらない。今日もずっと考えていたのですが、本当に、第一次産業的な、、農とか狩猟とかを中心とした暮らしをしていたときには、特に何ら問題にすらならないことだったと思うんですよね。
なぜ、空気を読む必要が出てきているのか。なぜ、ある程度の速さで仕事ができることを期待されるのか。なぜ、参照する力が求められるのか、なぜ、忍耐強くある必要があるのか、、などなどを突き詰めていくと、わっちは、現状の社会のあり方、資本主義社会で、消費社会で、経済活動がベースになっていて、貨幣経済で、、というところにどうしたっていきつくんじゃないかなと。
急激に、農的生活から離れたことが、今起こっていることとものすごく太い関係があるのではないかと。
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