中国の構造生物学の躍進と基盤施設の現状
「中国の構造生物学の躍進と基盤施設の現状」というタイトルで中国の構造生物学の歴史的進展や関連施設(放射光施設、電顕施設)の現状を紹介する記事を公開します。同名のタイトルにて日本のとある学会でもともとは今月にオンライン講演予定だったのですが、「服部が千人計画を通して中国への違法な技術流出や軍事研究に関わっている」という思い込みに基づく脅迫により、その講演は中止となりました。
そもそも私の研究分野では、研究成果はすべて論文として世界に向けて公開されます。また、私の研究分野である構造生物学は日本より中国のほうがかなり強い分野です。昨今、基礎科学において日本よりも中国のほうが強い分野が多くなっている中、そういった分野について日本への紹介を脅迫により妨害するというのは、日本が海外の現状を知る機会を奪うことになり、日本自身のためにもならないと思います。
実際、この紹介元記事についても、そもそも日本の役所関連から「中国のほうが進んでいる構造生物学について日本向けに紹介してほしい」と依頼されて執筆した文章です。また、それ以外にも中国のサイエンスの進展を日本向けに紹介するために各種文章の発表やメディア出演を以前は積極的に行っていました。一部メディアの報道等の影響もあると思いますが、このようなことになり、非常に残念に思います。また、本件については学会側に何ら非のないことであることも併せて明記させていただきます。
そこで、中止になったセミナーの代わりといってはなんですが、講演予定だった内容と同様の文章を今回公開することにします。昨年発売された「実験医学増刊 Vol.38 No.5 イメージング時代の構造生命科学」(羊土社刊)に収録された記事が元でして、発売から1年後の公開を許可してくださった羊土社のご厚意に感謝いたします。また、内容については、執筆から1年半ほどたち、いくつか状況が変化していることもあり、そのあたり加筆修正した内容となっています。
中国の構造生物学の躍進と基盤施設の現状
名前・所属
服部素之・復旦大学生命科学学院
Motoyuki HATTORI, School of Life Sciences, Fudan University
はじめに
中国においてはじめて立体構造解析がなされたタンパク質はブタのインスリンになります。1969年から中国科学院の物理研究所、生物物理研究所、上海生物化学研究所および北京大学の合同研究グループにより研究が開始し、最終的に1974年には1.8Å分解能を達成しています(参考文献1)。当時の中国の状況を考えると、非常にチャレンジングかつ先鋭的な試みであったといえるでしょう。その後も中国の構造生物学研究は続いていきますが、ブタインスリンの取り組みから数十年後、特に過去10年間の躍進がきわめて著しいのは皆さんもご存じところでしょう。
たとえば一つの目安としてですが、2000年代の10年間において、Nature, Science Cellの著名国際誌において中国からの構造生物学論文の数は12報とあります(参考文献2)。その一方、その後、2010年代の前半だけで約40報と激増し、2010年代の後半に年間数十報となっており、それは皆さんの実感にもよく一致するのではないでしょうか。また、中国からのPDB登録数は過去10年間で数千を超え、中国において構造生物学研究は質、量ともに非常に盛んとなっております。本稿では、近年その躍進の目覚ましい中国の構造生物学について基盤施設、特に放射光施設とクライオ電顕施設を通してその躍進と現状の紹介をしたいと思います。
1. 放射光施設の発展と現状
タンパク質をはじめとする生体分子の立体構造決定には、長年にわたりX線結晶構造解析が広く用いられてきました。そのためにはX線回折実験が必要となり、現代では主にシンクロトロン放射光施設において主に行われています。日本においては、SPring-8やPhoton Factoryなどの施設が知られていますが、中国における関連施設はどのように発展してきたのでしょうか。
1)中国における初期の放射光施設
中国における最初の放射光施設は北京電子陽電子コライダー (Beijing Electron–Positron Collider, BEPC)の中に併設されたBeijing Synchrotron Radiation Facility (BSRF)なります(参考文献3)。BEPCはその名の通り素粒子物理学のための加速器として1984年に建設がはじまり、1988年に稼働開始された施設です。BEPCは1999年に大型改修がなされ、生体高分子結晶用途を含む放射光施設BSRFとしての一部転用が始まりました(参考文献3)。
つまり、BSRFは放射光施設としてはいわゆる第一世代にあたります。また、改修後も放射光施設としての運用されるのは年間わずか1か月程度だったということもあり、中国の構造生物学コミュニティーの必要とする量および質のビームタイムを十分供給するには至らなかったようです。そのため中国国内においては実験室系におけるX線回折装置もしくは日本のPF等海外の放射光施設にて測定することが当時は多かったようです。そんなわけで、現在もBSRFは放射光施設としての運用が続けられているようではありますが、Protein Data BankにてBSRFからのPDB登録数は過去約20年間で合計250強とその数は限られています(参考文献4)。同じく90年代後半から運用がはじまったSPring-8からのPDB登録数が5000を大きく超えていることを考えると、その差は明らかといえるでしょう。
しかし、そのような状況の中でも、かつて中国で感染拡大が発生したSARSウイルス由来プロテアーゼの結晶構造をはじめとして様々な重要な成果がBSRFにより得られており(参考文献5)、90年代の終わりから00年代の半ばにかけて中国における唯一のシンクロトロン放射施設として一定の役割を果たしたことがわかります。このSARSウイルス由来プロテアーゼの構造解析を行ったグループ研究は、SARS-CoV-2の研究においても新型コロナ流行からの一年間の間に多数の優れた成果を発表しています。中国において新型コロナ研究が急速に立ち上がった背景には、このようなSARSウイルスの研究がSARSそのものの収束後も長年地道に続いていたことが大きいと思われます。
2) 上海光源の建設
第一世代の放射光施設であるBSRFに続き、中国初の第三世代放射光施設として建設されたのが3.5 GeVの蓄積リングを備えた上海光源(Shanghai Synchrotron Radiation Facility, SSRF)になります。2004年から建設がはじまり2009年から運用が開始されています。上海市郊外におけるハイテクパーク地区に建設がなされ、近隣には大学や研究所、外資系企業の研究所などが立ち並んでいます。隣接する「国家蛋白質科学センター」(図1)では、クライオ電顕やNMRの共同利用を提供すると共に、上海光源における一部ビームラインの運営にも携わっており、上海光源近辺は上海における一大研究地区といえるでしょう。
図1. 国家タンパク質科学センター入り口。筆者も上海光源およびクライオ電顕の利用の際頻繁にお世話になっています。
上海光源においてはBL17U1が唯一の生体高分子結晶用のビームラインとして運用が始まりました(参考文献6)。これにより中国国内におけるビームタイム供給が質量ともに大幅に改善しました。また2000年代後半の同時期から中国における構造生物学の研究室が顕著に増加したため、中国の研究室から多数の構造生物学論文が出版されることとなります。しかしながら、研究室の増加ペースがビームタイム増加を上回るペースであったこともあり、中国国内におけるビームタイム需要をBL17U1のみで十分に満たすにはいたらず、当時は1研究室あたり年間のビームタイムが24時間以下ということも珍しくなかったようです。
そのような中、2014年から2015年にかけてBL18UとBL19U1の二つの新たなビームラインが追加されました。また小角散乱実験用のビームラインとしてBL19U2も建設されています(参考文献7)。私は2015年に現職の上海における復旦大学に着任しましたが、その時点で3本のビームラインがすでに稼働状態にあったため、ビームタイム供給に関しては特にタイトという印象はありませんでした。つまり、BL17U1, BL18U, BL19U1という3本のビームラインが運営される2010年代後半に至り、中国国内におけるビームタイム事情は大きく改善されたといえるでしょう。
これら3本の生体高分子結晶用のビームラインのうち、BL17U1およびBL19U1が汎用性をもったビームラインを志向しているのに対して、BL18Uはいわゆる微小結晶を対象としたマイクロビームの提供を志向しているという特徴があります。各ビームラインいずれもDectris社製フォトンカウンティング型の検出器を備えており、ビームラインにおける測定のインターフェイスとしてはSLAC国立加速器研究所におけるSSRLによって開発されているBlu-Iceが導入されています。
2009年の上海光源の運用開始から今年で10年になりますが、登録されたPDB数はすでに数千を超え、中国におけるシンクロトロン放射光施設として中心的な役割を果たしています。その一方、日本のSPring-8ユーザーの方はよくご存知かと思いますが、今もSPring-8には中国からのユーザーはまだまだ多く、特にその需要は微小結晶に対するマイクロフォーカスビームラインに集中しています。今後は既設のビームラインのアップデートに加え、さらにビームラインの新設が予定されているとのことで、上海光源のさらなる改良、特にマイクロフォーカスビームライン関連のアップデートが期待されています。
3) 今後の発展: 上海XFELと北京光源
この節の最後になりますが、中国におけるX線関連施設の今後の重要な予定としては「上海FEL」 と「北京光源」の建設があります。
日本においては2011年からX線自由電子レーザー施設SACLAの運用がはじまっておりますが、上海FELは中国における初のX線自由電子レーザー施設になります。中国ではそのパイロットプロジェクトとして軟X線によるFEL施設、Shanghai soft X-ray Free-Electron Laser facility (SXFEL)の建設、運用がすでに進んでおります。これをさらに発展させる形で、2018年からは硬X線によるFEL施設、Shanghai HIgh repetition rate XFEL aNd Extreme light facility (SHINE)について2025年までの完成を目指して現在建設が進んいます。新型のFEL施設として1 MHzという非常に高い繰り返し周波数をアピールポイントとするとのことです。
北京光源High Energy Photon Source (HEPS)については上海光源に続く次世代のシンクロトロン放射施設として48億元(約700億円)の大型予算がすでに計上され、上海FELと同じく2020年代の半ばからの運用開始を目指すとのことです 。これにより上海、北京ともに放射光施設が整備されることとなります。
3. クライオ電子顕微鏡施設の現状
2010年代に入り、Direct Electron Detectorの登場をはじめとした各種技術進歩によりクライオ電顕を用いた単粒子解析により生体高分子の構造決定が可能となりました。その大きな流れに対して、アジアにおいて中国はかなり早くキャッチアップをし、いくつもの重要な構造解析の成果が出ているのは皆さんもご存じの通りかと思います。そのためには、クライオ電顕の技術に長けた人材の存在と共に、それらの人々によって運用される先端的なクライオ電顕のファシリティー導入が重要となります。本節では、中国における電子顕微鏡の導入と各種施設での運用の状況について簡単に紹介いたします。
1) 中国における最近のクライオ電子顕微鏡導入状況とその運用
中国においてDirect Electron Detectorを備えた生命科学分野向けのクライオ電顕の大多数がTitan KriosをはじめとするFEI社製品になります。これらの新型のクライオ電顕の設置状況はどのようになっているでしょうか。次々と各大学に導入されているため、正確な数の把握は難しく、数え漏れもおそらくあると思われますが、中国大陸におけるTitan Kriosに限って紹介すると、清華大学、北京大学、中国科学院・生物物理研究所、上海科技大学、中国科学院・上海薬物研究所、中国科学院・国家蛋白質科学センター、上海交通大学、浙江大学、西湖大学、中国科学技術大学、南方科技大学、香港中文大学深センキャンパスなど十数か所以上に渡り、稼働中のTitan Kriosは2019年時点で20台以上30台以下といったところだと思われます。ただ、私の所属する復旦大学を含めすでに新規および追加導入が決定しているケースも多数あり、2年以内には50台近い体制になるのではないか思われます。
また、これらのクライオ電顕の運用についてざっくりとした話になりますが、各大学に導入されているクライオ電顕のマシンタイム配分の多くについては、その大学内部のユーザーに主に割り振る傾向にあります。それに対して、中国科学院など国家レベルのファシリティーとして導入されたものについては、いわゆる放射光施設の共同利用課題のように課題申請をする形で外部ユーザーの利用を広く受けいれているケースがみられます。私の大学は数年前にクライオ電顕の導入が決定したものの設置場所の建設の遅れ等の問題があり、復旦大学学内に設置したクライオ電顕が現在までありません。そのため、それら中国科学院等における共同利用課題申請を通してクライオ電顕のマシンタイム供給を受けています。以下では私が大変お世話になっている中国科学院生物物理研究所(IBP)(図2)における共同利用のケースを例にビームタイム申請から利用までの流れを記します。
図2. 中国科学院・生物物理研究所の入り口写真。1958年設立の伝統ある研究所であり、今も数多くの第一線の研究者が所属しています。
まず、利用申請についてですが、放射光施設の利用課題申請同様に「構造解析の対象とするタンパクの背景説明」「研究のねらい」「準備状況」など記します。申請締切は半年に一度あり、およそ6-8人程度の審査員から新規性や準備状況などの各項目について点数付けをされ、その平均により審査スコアおよび供給マシンタイム日数が算出されます。これまでいくつもの課題を申請していますが、非常にフェアなシステムだと感じています。マシンタイム日数について一課題あたり私の経験ではおおむね3-6日の範囲でした(注:2019年当時。2021年現在は一課題あたり8-10日前後。以前より多く配分されることになったのは、各大学でのクライオ電顕整備が進んだこと、またbeam-image shiftを用いることで測定が以前より大幅に高速化したことが背景と思われます。このような事情により中国国内のマシンタイム供給状況はこの2年で大幅に改善しました)。ですので、半年ごとに2課題申請をすれば、毎月2、3日は測定できるイメージです。また、毎月のマシンタイム日決定の際にスコアが高い課題ほど優先されるシステムです。
実際の測定の際は、まず測定当日の朝に各施設のスタッフの先生方がマシンの立ち上げやグリッドのセットを行い、ユーザーが自分たちで測定をはじめるところまでサポートが受けられます。その後、スクリーニングから自動測定のセットアップまでユーザーが自分たちで進め、夕方定時にスタッフの先生が帰るまでに自動測定を開始する流れになっています。スタッフからのサポートが厚く、私の研究室のように電顕測定についてあまり習熟していなかったところでも測定ができる体制になっていたのは非常に助かりました。また、beam-image shift法の導入なども積極的になされ、手厚いサポート、安定した運営、新技術の随時導入が揃い、IBPのファシリティーとしての評判は中国でも非常に高いものとなっています。
利用料金についてですが、IBPの場合1日一万元(約15万円)となっています。日本の相場よりは高いですが、アメリカ等を比べると安く、Titan Kriosのメンテナンス費用等を考慮すると実費もしくはそれ以下の利用料金となっているのではないでしょうか。中国において共同利用可能な他施設でもおおむね類似の料金設定(8000-12000元)であるようです。中国の競争的研究費のサイズ(科研費相当の普通のグラントが約1000万円程度と日本の基盤B相当)を考えると、利用料を高く感じるユーザーも多く、今後、電顕使用料が安価になっていくことを希望する声をしばしば聞きます。
2) 今後の展望
今後の流れとしては、「主要大学へのクライオ電顕のさらなる設置」と「トモグラフィーへの強い関心と導入」があるのではないかと思われます。前者についてですが、私の所属する大学でも今年(2019年)の年末から来年の頭にかけて、Titan Kriosをはじめとして2台の300kevマシン、3台の200kevマシンが設置される予定です。他大学でも同様な話は多数あり、おそらく2年以内には国内のクライオ電顕マシンタイム事情は概ね充足されるのではないないかと思います。現状ではマシンタイム供給量が研究の律速になっている面が強いですが、この点は大きく改善されると思われます。また、トモグラフィーについてですが、昨今クライオ電顕の導入の際、トモグラフィー試料調製のためのCryo-FIBをあわせて導入するケースが多数あり、いわゆる構造生物学者に限らず、トモグラフィー技術への興味の高まりを強く感じます。この点については中国に限らず世界的な流れでもあるでしょう。
おわりに
以上、私の専門と深く関連する中国の放射光施設とクライオ電顕施設についてのお話をいたしました。2000年代の後半からの中国の構造生物学の顕著な躍進と構造生物学関連のこれら基盤施設の整備が密接に関連していることを感じて頂けたのではないかと思います。これらの躍進には同時期からの海外の中国系研究者の中国への「呼び戻し政策」も関連しており、「人材の獲得」「基盤施設の整備」の二つの要素がうまくかみ合った成果なのではないかと感じています。また、中国におけるクライオ電顕施設が急増する中で、その運用の在り方については、今後さらなる整備が進むことが期待される日本のクライオ電顕施設の参考になるお話があるのではないかとも思います。
本稿の執筆にあたっては、私の研究室の大学院生の黄一辰さんによる関連資料の収集、丁澦副教授の中国の構造生物学に関する経験談話が非常に大きな助けとなりました。この場を借りて感謝の意を述べたいと思います。
参考文献
1. The Peking Insulin Structure Research Group. Studieson the insulin crystal structure: The molecule at 1.8 Å resolution Sci Sin, 1974, 17: 752-777
2. DaCheng Wang, et. al, Structural Biology in China Progress in Biochemistry and Biophysics, 2014, 41(10): 944-0971
3. Beijing Electron Positron Collider, Baidu百科(中国語) https://baike.baidu.com/item/北京正负电子对撞机/3411733
4. Protein Data Bank, https://www.rcsb.org
5. Haitao Yang, et. al, The crystal structures of severe acute respiratory syndrome virus main protease and its complex with an inhibitor, Proc Natl Acad Sci U S A. 2003 Nov 11; 100(23): 13190–13195.
6. The macromolecular crystallography beamline of SSRF, Nuclear Science and Techniques, 2015, 26(1), 010102.
7. The new NCPSS BL19U2 beamline at the SSRF for small-angle X-ray scattering from biological macromolecules in solution, JOURNAL OF APPLIED CRYSTALLOGRAPHY, Volume 49| Part 5| October 2016| Pages 1428-1432
プロフィール
服部素之: 2009年東京工業大学生命理工学研究科・博士(理学)取得。その後、米国オレゴン健康科学大学(Eric Gouaux研究室)および東京大学大学院理学研究科生物科学専攻(濡木理研究室)での研究を経て、2015年より現職。現在の研究の中心はイオンチャネルの構造生物学。その一方、最近は「構造を決める」研究よりも「構造を使う」研究に興味が移り気味。