T. Ingoldから学ぶ物質性

T. Ingold Materials against materiality Archaeol. Dialogues(2007)

この論考は、ものの性質よりも物質性が強調されていることを反転をさせようとするものである。
ギブソンが住環境を媒体、物質、面(medium, substances, surfaces)に三分割したことを引用しつつ、ものの形態は、不活性な物質として外部から押し付けられるのではなく、物質とそれを取り巻く媒体との境界を横切る物質間の流動の中で絶えず生成され、溶解しているのだと主張する。
物質が活動的なのは、主体性が備わっているからではなく、生命の流れに巻き込まれているからなのである。
ものの性質は、物質の固定された属性ではなく、プロセス的で関係的なものである。

T.Ingoldは、ナッシュの梯子の作品を取り上げている。
その作品を⾒ると、⽊材はショールームで⼯場⽣産されたもののように、舞台裏に引っ込むのではなく、⽊材で作られたものから梯子の意味が顔を出しているように⾒える。私たちは、⽊から作られた梯⼦ではなく、梯⼦にされた⽊を⾒ているのである。
さらに、時間の経過、 季節とともに、木材は割れ、反り、ひび割れを起こし、最終的には彫刻家が最初に⼿を加えた形とはまったく異なる形に落ち着く。形の⽪の下で、物質が⽣き続け、成熟するにつれて表⾯を再構成するのだ。

このように、ナッシュは、⽊材を死んだ物質ではなく、⽣命を与える物質として扱い、ラテン語で「⺟」を意味する materから 延⻑して「素材」という⾔葉を最初に作った先⼈たちの知恵に私たちの注意を向けさせる。

この本来の意味での素材は、現代思想が⼀般的に思う無⽣物的なものからかけ離れ、 形成されていく世界の活動的な構成要素である。⽣命が活動してい るところならどこでも、物質は絶え間なく移動しており、流れ、削れ、混ざり合い、変異するのである。すべての⽣物は、その⾝体物質と流動体との間の絶え間ない呼吸と代謝の交換に巻きこまれているのだ。

また、ナッシュの梯⼦にハイ ブリッドなものはない。この梯⼦が作られた⼟の中の⽣きた⽊と同じ ように、この梯⼦は物質と精神ではなく、物質と媒体の境界にある。⽊が⽣きている、つまり「呼吸」しているのは、まさに その表⾯を物質が流動しているからである。 つまり、物に⽣命を吹き込むということは、物に主体性を振りかけることではなく、物が⽣まれ、⽣き続けている物質世界の⽣成的な流 動に戻すことなのである。
⽣命が物質の中にあるのではなく、物質が ⽣命の中にあるというこの考え⽅は、ペルス(1998, 94)が提唱し、 エドワード・タイラーの古典的な研究を思い起こさせる、従来の⼈類学的なアニミズムの理解とは正反対である。

第⼀に、物質は有機 体であり、それを活気づけるために精神や主体性の匂いを加えた固体の塊ではない。そのため、物質の流れの中で⽣まれ、成⻑し、そのさらなる変容に内部から参加するのである。

クリストファー・ティリーの著書『 ⽯の物質性』(2004年)は、ま さにこれを言い当てている。ブルターニュの中⽯器時代の⽯室、新⽯器 時代のマルタの神殿建築、スウェーデン南部の⻘銅器時代の岩彫りな ど、巨⼤な⽯や岩でできた古代のモニュメントに焦点を当て、彼は 素材としての ⽯の性質に多⼤な関⼼を寄せている。
彼は、その「 ⽯らしさ」が不変ではなく、光や陰、湿り気や乾き、観察者の位置や 姿勢や動きとの関係で無限に変化することを⽰す。⽯材の特性を表現 するためには、⽯碑の周りを歩いたり、⽯碑の上を歩いたり、⽯碑の 中を這い回ったりしながら、時間帯や季節、天候の違いによって変化 する⽯材の性質に従わなければならない。しかし、逆説的なことに、 彼の著書のタイトルそのものが、私たちを物質としての⽯から⽯の物質性へと⽴ち返らせる。そしてその動きによって、⽯は瞬時に⾵景に飲み込まれ、その表⾯は⼤地と空気ではなく、⾃然と⽂化、物理的 世界と観念の世界の接点を⽰す。このパラドックスは物質⽂化研究に 浸透し続け、物質の特性を事物の物質性へと変換していると私は主張する。この論⽂で私が訴えたいのは、この傾向を逆転させ 、もう⼀度 、 素材を真摯に受け⽌めるべきだということである。

あなたが本を読んでいる間、机の上に静かに置かれていた⽯を考えよう。あなたが何もしなくても、⽯は変化する。かつて⽯を覆っていた⽔分は蒸発し、表⾯はほとんど乾いている。まだ少し湿った部分があるかもしれないが、それは表⾯の⾊が濃くなっているのですぐにわかる。⽯の形は変わらないが、それ以外はまったく違って⾒える。がっかりするほどくすんで⾒えるかもしれない。⽔分を浴びた⽯は、乾いた空気を浴びた⽯よりも「⽯っぽい」と⾔いたくなるかもしれないが、⾒た⽬が違うだけだと認めるべきである。⽯を⼿に取って触ったり、何かにぶつけて⾳を⽴てたりしても同じことだ。乾いた⽯と濡れた⽯では感触も⾳も違う。

結論として⾔えることは、⽯の実体は何らかの媒体を浴びているはずなので、その表⾯全体、実体と媒体の間の相互作⽤に巻き込まれる⽅法を離れて、その⽯らしさを理解する⽅法はないということだ。
ナッシュの⽊材の彫刻のように、⽯は乾燥するにつれて実際に変化している。⽯であることは、⽯の「性質」、その物質性にあるのではない。また、観察者や実践者の⼼の中にあるものでもない。
⽯が周囲の環境(観察者であるあなたを含む)と関わり合い、⽯が⽣命世界の流れに巻き込まれる多様な⽅法によって、⽯らしさが現れるのである。要するに、素材の特性は属性ではなく歴史なのだ。

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