日に何度も呼ばれていた
少しだけ体調を崩し、病院に行った。
行きつけの病院には診察室が3つある。受付番号を呼ばれてそのうちのひとつに入り、先生を待っていると、診察中らしい声が隣から聞こえてきた。
先生とお母さんらしき人の話し声にかぶさるように、
「まま、まま〜」と呼びながら泣く、幼い女の子の声が聞こえる。
「まま、こわい、こわいの、まま〜」。すがるような声。予防接種か何かだろうか。
聞くともなしに聞いているうちに、いつのまにか涙が落ちていた。膝に、ばたばたばたっと。誰の?わたしの。
わたしもあんな風に、子どもから全身全霊で求められていた頃があったな、と思ったのだ。お母さん、お母さんって、一日何回となく呼ばれていた時期が。でもそれ、かみしめる間もないまま、あっという間にすぎていった。子どもはどんどん成長し、わたしの人生にはもうあんな風に誰かに呼ばれることは、きっとないのだろう。そんな風に思った。
診察を終えて待合室のソファに座ると、後から件のお母さんと女の子も出てきた。女の子はまだ少し泣いているよう。お母さんは特に気にする風もなく、女の子の手を引いてすたすたと奥のソファへと歩いていく。その「意に介さない感じ」にも、とても覚えがある。
(そうだよな、そんな風な毎日だったよなあ)と思いながら、でももう半分の頭の中では違うことを思っていた。
(もっと見てあげたらいいのに。今だけよ〜そんな風に子どもが思ってくれるのって)
育児経験者の言う、まったく根拠のない「今だけよ」。自分の中からその言葉が湧いてきていることに心底驚いた。そういうこというおばちゃん、あんなに嫌だったのに。これは、気をつけないと危険だ、あたし。
びっくりしたあとで、要はうらやましかったんだろうなとも思った。あれほどの切実さで名を呼ばれることも、それが、ひたすら繰り返す日常の中に、ぽんと無造作に置かれていることも。
もっと見ていたかった。じっくり味わえばよかった。目の前のことに、もっと目を向ければよかった。そんな風な、これもまたあまり根拠のない後悔にしばらくの間身を委ねてしまった。
子どもとの生活は永遠に続くように見えて、実はどんどん変わっていくし、過ぎていく。いい日もわるい日も、自分なりに直面し続けてきて、今がある。そのことはちゃんとわかっている。
それでもこんな風に、「まだまだ足りなかった」と思うのだろうか。たとえば今日のこの瞬間のことも、未来のわたしは後悔と共に思い出すのだろうか。
そんなことを思いながら家のドアを開ける。いきなり
「お母さん〜!どこ行ってたの!?」
という声と子どもが飛び出してきた。そうだった、もう泣きはしないものの、我が家の子どもたちは未だ現役で「お母さん」と、日に幾度となくわたしを呼ぶのだった。追憶にはまだ全然早すぎた。
それでも、この先のことを考えずにはいられない。何をしたって後悔はあるんだろうけど、できることなら、後悔は少ない方がいい。せめて、今日も一日よく生きたと思いながら眠りたい。
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