ひとりでいること、匿名的な仕事/ドリーミング村上春樹

「ドリーミング村上春樹」は、村上春樹の作品を20年以上、デンマーク語で翻訳しているメッテ・ホルムという翻訳家のドキュメンタリーだ。

映画は、「完璧な文章などというものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね」という、『風の歌を聴け』の一文の、「文章」という言葉の翻訳をめぐるシーンから始まる。「文章」は、「text」か「sentence」か、または「literature」か。友人や翻訳仲間に相談したりしながら、メッテ・ホルムは「文章」という言葉のことをずっと考えている。

そういえば母語が日本語のわたしはどの意味で取って読んでたんだろう、とふと思う。いや、たぶんどの意味ともつかないまま、そのことに疑問も持たずに読んでいたのだろう。あんまり意味は求めてなかったというか。わたしが「村上春樹っぽい言い回しだなー」とか思いながら雑に読み飛ばしていた文章を、メッテ・ホルムは丹念に追いかける。

朝食のシーンがある。キッチンで簡単な食事を準備し、テーブルに持っていってひとりで食べるメッテ・ホルム。傍らには訳している途中の小説が置かれていて、直接書き込みがしてある。彼女は食べながらページをめくる。意識はたぶん、食事よりも小説の世界の方へ向いている。家族はいないのだろうか、毎朝こんな風にご飯食べてるんだろうか、こんな風に1日じゅう、村上春樹の文章と向き合っているんだろうか。

来る日も来る日も、原文を読み、訳語を検討し、決定し、決めた文章をタイプしていく。自分自身を全投入するような作業だと思うけれど、その一方で、翻訳という仕事自体は匿名的だ。彼女が「文章」の訳出にあれだけ時間をかけたことも、ピンボールについて確認したくてゲームセンターみたいなところに出かけたことも、読者は知らない。彼女でなくてはできない仕事なのに、彼女の存在は前面には出てこない。宮大工みたい。

デンマークの人たちはきっと、村上春樹本人の言葉に触れているような気持ちで、彼女の言葉を読むのだろう。いいなあ、そういうの。

ひとりでいられることも、匿名的な仕事に打ち込めることも、わたしにとっては理想だ。旅をしたり、仲間と仕事を前進させるためのやりとりをしたり、夜中の公園で巨大なかえると行きあったりすることも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?