八田益之note的プロフ(2008-2020)
己の肉体を「世代最速のレーシングマシン」と捉え、「アラフォーほぼ最強」を名乗った。
いや、周りからどう思われようが、実際どうでもよかった。僕はただ、限界領域の身体と対話し続けることが楽しかった。
「努力」とか「過酷」とかは、その客観的表現なのかもしれないが、僕は身体を素材とした知的ゲームをしてきただけ。トップの写真はそんな時期の1つの到達点。それは新たなスタートラインでもあったな。
市民アスリートとして映える成績が続いた。見物にくる人たちは後になって増えて、ネット上の読者さんは何千人かになっていった。
でも僕の競技的ピーク時にリアルタイムで読んでた人はまあ300人規模。「ネット上で認識される八田益之という存在」は登場時点で既に「過去の市民アスリート」であった笑。
でも僕は相手が30人だろうが、自分の動作について考え、振り返り、言語化する過程が好きだ。そして、その過程自体を俯瞰してゆくことが好きだ。
なぜ僕はこんなものにこれだけハマっているのかな?と、新生というか覚醒というか、そんな過程の考察はエスノグラフィー社会学の書籍という形で世に問うことができた。大手媒体で複数の書評掲載をいただき、増刷もできた。ネット上でだけつながっていた何千人かに2000円近いお金を出して手にとっていただけたのも嬉しかった。
今の関心は、ちょっと大きな言葉と使えば、アスリートの知性の探求と普及。このnoteはその言語化のトレーニング場として使っている。ではなぜ僕はここに至ったのか、昔の文章をコピペしながらプロフィール記事を書いてみた。(7/4更新, 7000字)
旅
はじまりは、ただの個人的な旅。
35歳の初夏、クロスバイクで都心の自転車移動を始めた。夏にロードバイクを買い、秋に盗まれ、冬に買い直した。もっと走れる道、自転車の性能を引き出してあげられる道を求めた。翌春、伊豆半島を一泊しながら周った。
暗くなり飛び込みで確保した熱川の宿で朝食を取りながら主人と会話した。
「うちはオリンピックに出た自転車選手もたまに合宿で泊まるんだよ。自転車選手はすごいね、こんな山を毎日200㎞走るんだって。あなたはどこまで行くの?」
「土肥まで行ってフェリーで清水港へ渡るんです。17時過ぎの最終までに着けばいいんです。」
「こんなのんびりしてて時間大丈夫? 上りキツイよ?」
「いけますね、7時間で100㎞、平均時速13㎞でいいいんで。」
正しかったのは、宿の主人だった。
無謀さがゆえの興奮も同時に理解した。数十㎝のガードレールの向こうは100mの断崖、その先に太平洋。2時間サスペンスのクライマックスで見慣れた景色。決定的な違いは、自分の力だけで辿り着いた先で、そこからひろがる絶景であること。機械により「運ばれて」見ていた景色と、一歩一歩を身体で感じながら変わってゆく景色とが、どれだけ違うのかを疲労のなかで知った。それは自分だけに与えられた特別な光景だった。
一つ一つの峠は、僕がどこまでできるのかを試してくる。身体はギシギシときしみはじめる。己の極限まで力を振り絞る。僕にはできる、僕にはできる、と唱えながら、全身のあらゆる筋力をひっぱりだす。自転車用のモモの筋肉は既に使い尽くし、最後は腕力でハンドルの上に体重を持ち上げ、ペダルへと自由落下させてチェーンを回す。峠を超える。勝利だ。しばし一休み。下りコーナリングにも慣れてきた。最後の約40㎞区間は平均時速26㎞にまで上げた。最終フェリーの25分前に土肥港に到着する。優勝だ。
夕焼けの駿河湾を渡るフェリーの甲板。大きな海に浮かぶ、限界を越えて使い尽くした小さな身体。自分の力でここまで走りきったという事実。今まで知らなかった種類のエネルギー。そうだ、僕にはできるんだ。
ゴールデンウィークは箱根駅伝のコースへ。4区大磯で「太平洋自転車道」という標識があり、その雄大なネーミングに惹かれて入ってみた。後に、どうやら村上春樹さんがトライアスロンのトレーニングに愛用していた道らしいと知る。その分かれ道は、より大きなものへの分かれ道だったのかもしれない。夕暮れを前に傾きかけた太陽が相模湾にオレンジ色に反射していた。その先に、あの日走った伊豆の山々が広がる。奥には大きな富士山。これは単なる美しい風景ではなく、自分の脚だけで掴み取った自分だけのものだ。
こんな環境で生きてみたい。湘南エリアの賃貸サイトを調べ、2週後に見学、月末には引っ越していた。渋谷行き湘南ライナー指定席は500円。帰りに駅で翌日の指定券を買っておけば楽。しかしこの地理的な環境変化は、僕の心理を決定的に変えた。週末に最高の環境にいる自分を確認すると、それを基準に全てを捉え直すようになる。これまで僕を捉えていた会社生活への思い込みは急速に消えていった。独立に向けた準備を始めてみると、意外なほどスムーズに進み、転居から数週間後、僕は会社を辞めた。
近所には小さな自転車店があり、少し耳が遠くてゆっくり話す高齢者が一人でお店を回していた。彼の名は渡邊努。競輪トップレベルで長年活躍したが、むしろ引退後の活動で知られる。60歳ごろに自転車店を開業し、地元の子供達を指導すると、そこから別府史之さん、山本雅道さんほか、トッププロを何人も輩出したのだった。店内にはフミさんなどの日本代表ジャージ、オリンピックへの寄せ書きの国旗、活躍を伝える新聞記事、ランス・アームストロングとフミさんとのサイン入り写真などが飾られていた。狭い空間を埋め尽くす実績の輝きに、僕は圧倒された。同時に、僕なんかでは場違いかな、とも思った。
「すごいですね、でも、私は楽しく安心して走れれば十分なんですけど。」「いいんだよ、自転車は自分なりに楽しめばいいんだよ。この選手も、あの選手も、最初はそうだったんだ。そのまま楽しむだけでもいいし、速くなりたくなれば、なってみればいい。」
とオーナーはゆっくりと、嬉しそうに言う。心から自転車を愛しているのだと思った。
11月末、チームの飲み会に、OBのプロ選手が何人か来るという。その名前に驚いた。だがビールを手に話してみると、本当にただただ自転車が大好きな陽気な青年で、その普通さ加減に再び驚いた。
やはり有名選手である兄と一緒に、当時オーナーの(今の姿からは想像もつかない)厳しい指導、練習コースを、眼を輝かせ語り続ける。
弟「一番ヤバい坂って、ここじゃない?」
兄「いや、もっとすごいのがある」
弟「あー、それそれ! イタリアのあのレースのあの坂くらいあるよね!」
それらを含んだ何十かの練習コースは、後日、地図サイトのルートラボにアップされた。幾つかをトライしてみた。この坂を、少年時代の彼はどんなスピードで走ったんだろう、世界トップを戦う今ならどんな走りをするんだろう。そんな想像をしていたら、じゃあ自分ならどこまでできるだろうか、という気持ちが湧き上がってきた。それは強く純粋なもので、僕を捉えて離さない。自転車レースをしている自分を想像するようになった。
翌年3月に自転車レースに、7月にトライアスロンに出てみた。実家の隣町の蒲郡大会、ゴールゲートを前にすると、気が緩んだせいか、ついに両脚が限界を越え痙攣し始めた。ぴょこぴょこ跳ねる奇妙なダンスでゴールラインを通過し、2時間20分の異空間、もしくはセルフ拷問からの帰還を果たした。38歳を目前にした身体を、3種類の方法によって酷使し尽くながら。「解放された」と思った。実のところそれは、さらなる捕囚のはじまりだった。
時折思い浮かんだのは、レース中に目にした上位者たちのスピードだった。僕の動きはこんなに重いのに、あんな軽快に動き続ける。ここにいる何百人のなかの上位何人かに入って表彰を受ける。そんな人達が同じ場にいるんだ。そう考えると、疲労しきった身体が少し熱くなってゆくのを感じた。僕も同じステージに上がれないだろうか。そんな「強豪トライアスリートとしての自分」を想像した。
表彰台に立つという願望は、6週後、トライアスロン2戦目の長良川大会で実現した。さらに2大会に出たら競技団体JTUの年間ランキング年齢別(35-39)2位に。この分不相応なタイトルは僕をさらなる深みへと踏み入らせ、翌2010年、年間王者のチャンピオンジャージを手にしたのは僕だった。
ディフェンディング・チャンピオンとして迎えた2012年頃から、僕は自身の肉体を世代最強レーシングマシンのようなものと意識し始めた。最速マシンとして開発・改良し、レースに出て、最初にゴールを駆け抜ける。こうした過程を、「アラフォーほぼ最強トライアスリート」を名乗ってブログに書き続けた。当時ハンドルネームは「ハッタリくん」。こんな僕が最強だなんて、というためらいを込めていた。読者はレースのたびに増えていった。SNSで関心を持った人に「はじめまして」と友達申請すると「いつもブログ読んでいます」と返ってくる。3年目のシーズンが終わり、2枚目のチャンピオン・ジャージが送られてきた。
その頃、法政大学で師匠タナケン(と未成年の学生から普通に呼ばれている)と遭遇。
「八田さん、ブログ読みました、おもしろいですね」
周りのトライアスリートと同じことを言われた。
「良いエスノグラフィの素材です。出版できます。メルロ・ポンティを超えましょう。」
えすのぐらふぃい?めるろぽんてぃい?渡された分厚く文字の小さな本を開いて、クラクラした。活字耐性は強いつもりだったのに。。ともかく僕は師匠と共に新たなゴールを設定した。辿り着いたのはその5年後。
競技成績
・JTUエイジランキング4連覇(2011-2014年)
・51.5kmアマチュア大会で22連続表彰台
('10長良川〜'14村上)
・総合優勝:天草'13, 館山'14, 伊良湖B'14
・アイアンマン世界選手権KONA'13(計226km)出場
(9:35:33, M40-44カテゴリ39位/305名中=上位15%内)
・ITU世界選手権シカゴ'15エイジ部門 公費派遣
・自転車ロードレースではJCRC3戦中2表彰台
(2011西湖X, 2012群馬C, 3大会目で救急車乗車)
個々の大会出場歴は当時ブログのプロフィールを。
JTUランキングは歴代王者に4つ掲載 ↓
2013年10月、アイアンマンKONAの帰国便は天候不順の影響でビジネスクラスに変わり、待ち時間でオアフ島の友人に合うこともできた。ちょっと高い酒を呑み続け書き始めたレースレポートは合計3万字。ここから読者さんが急増したのだけど、僕が一番うれしかったのは、3つの総合優勝。その場に集った1,000人の中で、僕が最初にゴールに辿り着いた、という事実の重さがあるから。僕が本当に目指していたのもここだったと思う。もうこのレベルは目指せないな(まず心理的に)、と思った時に、成績へのモチベーションも消えた。
他人からはいわれないけど密かに誇っているのは約4年間にわたる連続表彰台。私失敗しないんで。アマチュア=エイジカテゴリで表彰台を逃したのは、2013セントレア113km(表彰台は全員元プロ選手!)、世界選手権226kmの2つ。あと日本選手権への地区予選2つ。
レースしてて楽しかったのは自転車レース。レース中の落車で救急車に乗ってから出ていないけど、このレース中の感覚は、2012−2013年のバイクのジャンプアップに直結した。廻り道は大事だ。
2015年9月のシカゴで、僕なりの到達点を感じた。当時ブログ:
僕にとってこの競技の核心は「中途半端さ」にある。限られた時間の中、3種目それぞれを極めることはできない。妥協の連続のようなもの、極める、ということがない。ステージが上がるほど、いつでも、もっと強い人達が表れる。獲得したものを同じレベルでもう一度続けるだけでも大変だというのに。でも、自分の身体の中で限界が更新されてゆく感覚、その過程は、僕の中に消えずに残っている。僕にとっての到達点なら存在し、僕はたしかにその場に立つことができたと思う。
以降、成績目的での大会出場はしていない。まあ、それはそれで楽しい。
水泳自転車ランニングの分析魔として
僕は、自分の身体をレーシングマシンとして、いろんな理論を試す実験台にしながら、その言語化をしてゆくプロセスが好きだ。スポーツの身体的才能がないことは10代の頃に思い知っている僕が、自信をもって取り組めた領域でもある。これを僕は、おおげさなようだけど、「トレーニング哲学」と呼んでいる。哲学とは、複雑多様で正解のない世界にあって、自分なりに考える際に、思考と判断の指針となるもの、といった意味合いだ。一流アスリートやコーチの言葉や科学の成果を、解釈し、実行してきた。大量の情報からその本質を見抜き、思考の軸を作って、自らの体験を通じて実証する。こうしたトレーニング理論や身体動作についての思考過程を自分なりに表現してきた。
スポーツのトレーニングとは、こうした身体を舞台とした観察、分析、想像の連続だ。己の身体との絶えざる対話であり、その意味での知的作業だ。その舞台が、限界一歩手前の極限領域にある身体である、というだけだ。単純な忍耐の積み上げではなく、試行錯誤を幾重にも積み重ねた知的経験だからこそ、それは身体化された思考となり、極限下でも使いこなすことができる。
僕が語るのは、たかだかアマチュアのタイトルを4年続けただけな1個人の経験論にすぎない。それでも自分の知らないところで共感が拡がっていった。不思議な感覚だった。幾つかの記事は数万のビューがあり、読者の中には各分野の専門家、たとえば現役プロ選手、コーチ、医師なども増えていった。良質な読み手から的確なフィードバックをいただくことで、思考と表現が磨かれていった。
それから何年か、上位レベルから離れてみて思うのは、身体能力はすぐに落ちてゆくものだけど、言葉により理解しておけば、それを頼りに、いつでもまた走り始めることができるということだ。当時の心身の感覚と共に。
・・・
具体的なレベルでいうと、トライアスロンの水泳=クロールの言語化が最も得意で、1988ソウル五輪バタフライ代表の三浦広司コーチの水泳教室を、言語化&宣伝を軸に支援して好評をいただいている。最近できてないけど。
社会学/身体のエスノグラファーとして
これら経験を社会学の視点から言語化した著書が
『覚醒せよ、わが身体。トライアスリートのエスノグラフィー』
(2017, ハーベスト社刊, 田中研之輔法政大学教授との共著)
中央公論・中日&東京新聞・図書新聞・週刊読書人等に書評掲載。二刷発売中(ネット書店では欠品が多く、正規品の注文は書店でどうぞ。楽天ブックスに在庫ある場合も):
日経ウーマン道端カレンさんインタビュー(2018)も書いた:
キャリア教育のトレーナーとして
高待遇だけを理由に新卒で入ったSAPジャパンを気まぐれに辞めたあと、ベンチャー的に立ち上がったコンサルティング会社(経営者は後に組織リーダーシップなどの第一人者となる小倉広さん)
新人ビジネス教育を強みとする研修企業(後に上場、当時上司の高橋浩一さんは法人営業本『無敗営業』がベストセラー、実際当時からすごかった)
で勤務。エッジの効いた人材育成を見てきた中で、体系的な学びの必要性を感じて、法政大学大学院キャリアデザイン学研究科で修士号取得(2014年)。指導教官は現在プロティアン・キャリア論で注目される田中研之輔教授。
僕の周りに は すごい人が多いなあ。
こうした、本人のキャラやお客さんとの関係性まで含めて理解している教育法をベースに、現在、女子体育大のキャリア科目の講師を担当中。
いわゆる「キャリア教育」にはいろんな流派があり、時代による流行もあるけど、現在主流なものは、
正解のない時代環境の中で、自分なりに考え行動してゆくための「なにか」を、それぞれにつかむための「過程」
だと理解している。正解を教えるのではないから教官ではなくて、その過程に意味があるトレーナー。アカデミック・トレーナー(※タナケン師匠の造語)だ。
内容面での骨格は、初期のキラキラ系キャリア教育の問題点を指摘してきた法政の児美川教授、それら踏まえた実践術を開発してきたタナケン教授が基礎になっている。高校までの教科でいえば、最新の社会×実践型の国語×少しの体育、といったところかな?
僕自身、数千の読者さん相手に発信し続けてきたことが、支えになってる面もあり、先程書いた通りだ。でもそれ以上に、目の前の学生さんから学ぶことが多いのがトレーナーという立場だ。最先端かつ実践最重視のキャリア形成支援を、アスリート目線で担当中。
・・・
ついでに過去の人気ブログ掲載:中学高校での部活動と勉強の両立についてのブログ「スポーツと勉強の両立法」(2016)
スポーツコミュニケーションアドバイザー&コーチとして
2019年末、ビジネスコーチングの国内第一人者、谷口貴彦氏のもとで、認定スポーツコミュニケーションアドバイザー&コーチ資格(一般社団法人 日本スポーツコーチング協会)を取得。公益財団法人日本スポーツ協会「公認スポーツ指導者の資格更新のための義務研修」も実施可能。
ここでの師匠、谷口コーチも、十数年前から一度しっかり学びたいと思い続けてきた方。2009年出版の『ザ・コーチ』はまちがいなく古典的名著。
結論:なぜ僕はここに至ったのか
冒頭の問いに答えておくと、この全ての点が繋がって、こうなったということ。結論など存在しない、全ては変化の中にある。