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カナダからの手紙〜妹へ  その3 仕事の話

 妹へ

お元気ですか?
今日は、私が関わった通訳について、話してみたいと思います。

1日のシフトが終わると、その日に印象的だった通訳の件が、頭に残ります。

例えば、この間お話しした生命保険の件。1時間くらい、通訳をしていました。

私が通訳している時は、単に、日本語を喋る人の立場に立ってのみ、話しているのではありません。

日本語を話す人、そしてそれに英語で返答をする人、両方の立場に立って、しゃべっています。

ですから、日本語を話す人の感情が、その人の声を英語にするとき、私の中を通り過ぎます。

単に言葉だけを通訳しているのではなく、その人が自分の言葉に乗せている、その人の考え方、感じ方、感情を、それまでも反映した通訳をしているので、私は、ある意味、1日の仕事が終わると、なんか疲れを感じます。

英語の話す人の言葉を、その人の考え方、感情を乗せて、通訳し、それが伝え終えた瞬間に、素早く自分を切り替えて、今度は日本語を話す人の言葉を、同様に通訳します。

だから会話の中で交わされるエネルギー、感情といったものが、両方から、私の中に流れ込んできます。

例えば、生命保険の件。
私は生命保険というのは、持っていていいものと思っていましたが、今回の件で、何年も振り込んでいた保険の価値がゼロになってしまうということがあり得ることがわかりました。そうなると、あてにしていた生命保険が、リタイアした後に、更なるお金を投入しない限り存在しなくなるということ。

何かのための備え、というのは、大切な考え方でありながら、その考え方の裏には、不安、恐れ、ネガティブ思考があります。

これは人によっては、保険というのが頼れる存在になる可能性があると同時に、誰でも保険を持っていれば、それによって守られる、救われるということではないのだなと実感しました。

それはその人の持つ波動の違いにも影響されるのではないかと感じています。



そのほか、つい最近、通訳した中で、私の頭に残ったものを紹介します。

流産の件
これは、アメリカの女性医師と、日本人女性とその夫(日本人男性)の間の通訳。

女性医師が、具合はどうかと聞くと、日本人女性は、今までつわりがあったけど、このつわりがおさまって、過ごしやすくなったというのを通訳しました。

この過ごしやすくなったというところを、英語では、ピースフルになったという言葉で表現したら、女性医師が、一瞬、クスッと笑ったように聞こえました。

私は、その時、アレ、こんな言い方はおかしかったのかなと思いましたが、その後の女性医師の話を訳していて、なんで、彼女がこの表現に反応したのか、わかりました。

妊娠の検診で、七週間と三日目の時点では、胎児の鼓動が聞こえていたが、今日、七週間と四日目になって、胎児の鼓動が聞こえないということ。

つまり流産の可能性がある。

この時、私が感じたのは、女性医師としては、流産の可能性と言っても、かなり高い確率で、これは流産であるという意識があること。

つわりがなくなって、楽になったと喜んでいる日本人女性は、この医師から見れば、妊娠の辛さから解放されたというような感覚を感じたのであろう。

しかし、つわりからの解放を喜んでいるこの女性は、まさか胎児が死亡しているとは思わない。

もう一度超音波の検査をして、本当に流産かどうか確認しますという医師に対して、夫である日本人男性は、食い下がります。

もう一回超音波検査をすれば、あるいは、胎児の心音がまた聞こえる可能性があるかもという強い思い。

医師の意向としては、もう一度超音波検査をする理由は、これが、間違いなく、流産で、心音が聞こえないことを確認するためということ。

でも、日本人夫婦にしてみれば、もう一度やれば、もしかしたら、今日の結果、たまたま心音が聞こえなかったということが、覆されて、なんだやっぱり心音聞こえるじゃんっていうことになるために、もう一度超音波検査をするという考え方。

表面上の言葉だけを追っていたら、一見、スムーズな会話のように見えても、深層心理のレベルでは、日本人夫婦が、どうしても、流産の話を受け入れられないという、そんなはずはないのだ、という、強い思いが、私の中を駆け抜けました。

同時に、医師は、そのような思いから発せられる日本人の夫の言葉の意味が、マトを得ていないように感じる。

そこを、クローズアップするかのように、今度は、女性医師が、自分の言っている意味を理解してもらいたいという、確固とした意志で、もう一度検査をするということは、この流産という診断が、本当に間違えではないということを確認するためであることを伝える。

つまり、もしかしたら、心音が聞こえて、流産という診断が間違っていたと信じたい夫婦の、受け入れられないという強い思いの、自分達を囲って、自分たちの持つ強い想いを、外の、自分達の思いに賛同しない人たちから、自分達をしっかり守る、強い思い込み・想念のバブルを、厳しい一言で、プチっと刺して、そのバブル風船をパーンと破裂させて、その中にいる日本人夫婦が、真実と直面しなければならないように。

それぞれの想いが、言葉を訳すことで、自分の中を駆け抜ける。

これは、私の思いではないのですが、誰かの声、誰かの言葉を通訳するということは、その人の思いを、その人が話さない言語に乗せて、その言語でしか理解できない人に、その想いを伝える。

この作業が、色々な人の想いを、私というシステムを通して、他言語として、伝えるとき、その想いが、その想いの波動が、私本来の波動をも揺らがせる。

しかし、この揺らぎは、私の波動ではないので、この揺らぎを、自分本来の自分軸・自分の波動へ戻すプロセスが、自然と無意識的に、私の中で作動する。

なんとなくの疲れというのは、この自分本来の波動に立ち返るというプロセスで、感じられているように思う。

体を動かす肉体労働ではないので、そういう意味での体の疲れというのは、ないはずなのに、なんか、とても微妙なレベルで、グタッとする。

私としては、どの通訳の件であっても、自分の意見というのは入れない。だから、このぐたっとする感覚から、本来の自分の波動に立ち返ることが、とっても大事になってくる。

この仕事では、それぞれの人の思いを、お互いに伝え合うために、私という媒体を通して、それをなす。

自分の意識を持ちながら、でも、自分の考えを反映させることなく、それぞれの人の思いに忠実に寄り添ってみる。そこから、言葉を発する。

私は、こんなふうにして、少しも、自分の能力が、誰かの役に立って、誰かの聞こえない声や想いを伝えることができて、それが、その人のため、またその人の周りの人たちのために、なんらかの形で、役に立って、その人たち、あるいは、その人たちを囲む社会、世界が、少しでもより良い方向に向かえるように貢献できればと思っている。

でも、こんなこと、私が感じていることを、シェアして、話し合える、心が通じ合える仲間と、出会いたいと、強く思っている、今日この頃でもあります。

カナダより


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