「炎上」への憎しみ
このnoteは、ナインティナイン岡村隆史の炎上の件を知っているリスナー向けに書きました。そのため、詳細な経緯などは省略しています。
なにもできなかった自分への憎しみ
岡村さんが炎上した日から、私はずっとムカついていた。
深夜のあの時間にみんなでコソコソ集まって、布団の中でクスクス笑って聞いてるような番組だった。
そこへ突然、得体の知れない謎の民族が奇襲攻撃を仕掛けてきた。
その炎はたちまち燃え広がり、多くのリスナーが傷を負った。
SNSではリスナーと謎の民族が戦い合っていた。
なんであんな連中と戦わなければいけないんだという怒りもあった。
一方で、まだ岡村隆史の炎上後の第一声を聞いていない段階で「あの発言は確かに問題だった」とか「岡村さんも反省すべき」などと批判しだすリスナーにもムカついていた。
自分はパーソナリティーのイエスマンではないのだと周囲にアピールしてるようにも見えた。
正しいことを言っていると思う一方で、急に梯子を外された感覚になった。
他番組のラジオリスナーからもすぐに厳しい意見が飛び交っていた。
岡村さんを悪い意味で引き合いにだし、自分が贔屓にしているパーソナリティと比較したり、他番組での触れられ方で「これはマジでヤバい件だ」と煽られたように感じてムカついた。
大きな枠の中では同じラジオ仲間のように感じていたので悲しくもなった。
岡村さんの発言は、本当にその発言だけを切り取ったら、聴いていて気持ちのいいものではなかったかもしれない。言葉を間違えていたかもしれない。ネタとして成立していなかったのかもしれない。
それは頭では理解しつつも、だけど、岡村隆史がどういう人間で、「岡村隆史のオールナイトニッポン」がどういう場で、どういう流れがあって…。
それを熟知しているリスナーは、岡村隆史が「誰かの不幸を待ち望んでいる」なんてありえないことくらい、あたりまえに知っていたはずだろう。
その一点に賭けて、こちらの陣地に奇襲をかけてきたどこぞの民族に対して、それなりに言い返してよかったのかもしれないと今となっては思っている。
それは、こちらも炎上をし返すなどという手段ではなく、岡村隆史を誤解している人に対してそれを解くようなやりかたで。
リスナーにもムカついたという話をしたが、では私があの時なにをしたかと言えば、なにもしていなかった。
そんな自分自身にも当然ムカついていたし、そのことがこの文章を書くに至るまで残り続ける私の中のモヤでもあった。
もはや生活の一部になっているラジオのパーソナリティーが炎上したことで、自分自身も責められているような気持ちになっていた。
これまでの自分の発言や立ち振る舞いも全て否定されているような感覚。
何度もその幻想をふり払おうとしたが、なかなかすぐには解けなかった。
いろんな発言をしたリスナーがいて、いろんな感情が湧きあがったが、もしかしたらみんな同じ幻想の中でもがいていたのではないかと思う。
だから今は、あのときのムカついた気持ちは自分だけに向けようと思っている。
そしてそんな幻想をみるほどに、「岡村隆史のオールナイトニッポン」は、岡村隆史とリスナーとの距離が史上もっとも(まさに限界まで)近かった尊い5年半であったと、あえて肯定もしておきたい。
これまで何度もこの件について書くタイミングがあったと思うが、ここまで時間が経ってしまった。
ナインティナインのオールナイトニッポンが復活して一年。このタイミングが最後なんじゃないかと個人的に感じた。
炎上への憎しみ
もうずっと前から、他所では様々な「炎上」が勃発していた。
そんな光景をなんとなく傍観していた矢先、突如としてそれは身近に迫ってきた。
岡村さんの発言について、不適切だとか、女性蔑視だとか、傷ついた人がいるとかいないとか、もっともらしい正義を並べられてこちらもただ黙るしかない状況ではあったが、それでもひっかかる部分はある。
炎上が、岡村隆史の番組(発言のあった番組に限らず)降板を望む声や活動に発展していったことだ。
私は先のとおり、岡村さんが誰かの不幸を待ち望んでいるなんてありえないと認識している。
しかし炎上に参加している人たちは、岡村隆史は女性の不幸を待ちわびる悪人であるかのように誤解していた。
あるいは岡村さんの真意などほとんど関心はないが、とにかく発言そのものが気に入らないから何か言いたい人も多かったであろう。
ここではあえて誤解が解けていない状態で話を進めるとして、「困窮する女性が救われない社会であってはならない」「女性蔑視が当たり前に行われる社会であってはならない」と同時に、「一つの失言をした人間を徹底的に引きずり下ろす社会であってはならない」と私は付け加えたい。
岡村隆史でさえ、番組をすべて降板させられ、仕事を失ってしまえば次第に困窮していくだろう。
それを社会は「自己責任」と片付けるが、すべての問題は本当に「自己責任」として個人を切り捨てていいものなのだろうか。
例えば失言をする政治家が責任をとって辞任することが定石となっているように、社会の問題を自己責任で幕引きするループで、社会は少しずつ腐り続けている。
けれど本当は誰だって、常に「自己責任」を問われ続け、怯えながら、何も言えず、何もできずに鬱屈としている、またはいずれそうなるかもしれない不安を抱えている。それが今の社会の問題なのではないだろうか。
あれから約一年
炎上事件以降、「岡村隆史のオールナイトニッポン」は終了し、「ナインティナインのオールナイトニッポン」が復活した。
私の感覚では、岡村さんの炎上事件はワイドショーで少し取り上げられた程度で、そのほとんどはネット上のできごとだったと認識している。
ネットを見ているから炎上に巻き込まれて苦しんだり余計な憶測を招くのであって、一切ネットに関わらずに週に一度のラジオだけを聴いていたら、もっと感じ方や受け取り方も違ったのだろう。
一週間に一度のペースで、ゆっくりと深くのみこみ、考える心の余裕もあっただろう。
パーソナリティーとリスナー。ただその一線だけでつながっていれば、パーソナリティーの考えや言葉が雑音なくすうっと染み入ったのかもしれない。
パーソナリティーとリスナーが一対一でつながっている感覚を味わえる。ラジオって本来そういうものじゃないか。
きっとあの炎上事件でネットから離れてしまった人もいるのだろう。
私も何もかもが嫌になって、一度SNSを退会してリセットしている。
だからそういう人たちのやるせない気持ちも少しはわかっていると思う。
ただ、ネットで得体の知れない謎の民族(=炎上に参加する大勢のネット民)に批判の石つぶてを浴びて傷だらけになったリスナーに、そして自分自身にも言いたいことがある。
ナインティナインがこれまで築いてきた信頼は絶大なものである。
20代前半からずっと第一線で活躍しつづけ、不安定な芸能界においても常に地盤を固めている。
これまで多くの番組に携わり、その度に多くのファンを獲得しつづけている。
炎上事件の際にネットに参加していた人は、普段からネットに接続しているナイナイのラジオリスナーに限った人数であって、ネットやSNSをやっていない人、ネットを見る習慣がない人、ネットに関心がない人、そういうファンだっている。
子供のファンだっているし、ナイナイが21歳の時に10歳上だったファンは今は61歳の高齢者だ。老若男女に愛され、支持されつづけてきた。
ネット上では謎の民族が数の上で優位に感じることもあったかもしれない。
しかし、わかりやすく見えていないだけで、この日本に(あるいは世界に)ナインティナインのファンあるいは好意的に思っている人数はとてつもないのだと私は思っている。
だからこそ、炎上事件後も比較的早々にリカバリーできているのだと思う。
業界関係者だってきっとわかってる、今回の件でナインティナインが消えることがあってはならないと。
芸能人の炎上後の行く末は、それまで築いてきた信頼度や炎上後の対応力、そして本人の人間性によって左右されているように感じる。
その点において、ナイナイ自身のリカバリー力が極めて高いことはもう周知の事実であろう。
そしてその方法も、ナイナイらしい優しさであふれている。
活動拠点は変えず、コンビもバラバラにならないどころか以前より強固に結束している。
リスナーを刺激しないやり方で、少しずつ、試行錯誤しながら…。
あの炎上から約一年。
当時はしばらく岡村さんとナイナイ、そしてラジオの行く末が心配になった。
今、リスナーのみんなはどうだろうか。
私は最近までまだいじけていたみたい。
だけど、きっともう大丈夫!
ナインティナインが築き上げた信頼の礎は伊達じゃない。