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ハトノス広島講座④ 「分からない情報」への立ち向かい方

 「広島-原爆」についての演劇を作っているハトノス・青木が「今『広島-原爆』から何が見えるか」について考えていくハトノス広島講座。第4回目は「『分からない情報』への立ち向かい方」。情報の取捨選択について、私の体験を話していきます。

 過去3回と比べると「原爆」から遠ざかっているような気もしますが、原爆について考え始めた私が最初に出会った大きな壁についての話です。

■1.きっかけ ーなにが「陰謀論」なのかの判断もできないー

 今回のテーマ設定のきっかけは、Twitterで以下のような投稿を見かけたことです。ここではその内容だけ紹介しますが、これを見て、私は原爆について学び始めた頃を思い出していました。

原爆の使用について、当初アメリカも良心からためらいを見せていた。そんな中で日本はポツダム宣言について判断を保留し、そのことを朝日新聞が「黙殺」と報道した。それを見たアメリカ政府はこれ以上の交渉は無理と判断し、原爆の投下が決定的となった。つまるところ、原爆の投下は朝日新聞のねつ造が引き起こした。

最初に言っておきますが、この内容は間違いです。ありえません。しかしこのような主張はTwitterをはじめとするネットの海に溢れているし、ともすれば書籍にも記されています。今私はこれが間違いであると言い切っているのですが、かつては出会った情報に対しての判断ができず、途方にくれたことがありました。正直なところ、今でもそんなことはたくさんあります。けれども私が原爆について学ぼうと決めた直後は、全てのことについて、全てが正しく見え、そんなことはない気がするという感覚との間で揺れ動いていました。あの頃は、常に迷子だったと言えます。

 原爆については多くの人が多様な研究を残している一方で、様々な「陰謀論」が存在します。正しく、有用な研究が多い一方で、役に立たない、かえって正しい理解を阻害するような情報に出会うこともあるのです。知識があれば陰謀論については一蹴できるかもしれませんが、当時原爆については19年間広島で暮らしたことによる経験的な理解しかしていなかった私には、正しくないことを正しくないという力さえありませんでした。

■2.困ったので大学の先生に質問してみた

 途方にくれた私は、当時受講していた大学の講義の中で、先生に質問をぶつけました。迷いがむき出しのまま現れた私の質問に対して、先生は丁寧に答えてくれました。その内容は、以下のようなものでした。

資料すべてに目を通して、その正しさを検討するのは研究者の仕事。
「すべての確認」ができなくても、次の二つのことは情報を判断する指針になる。
・歴史的事実として整合性があるか
 「陰謀論」となると、一面から物語を作ることになるため、他の事象と  の関係を見た時に整合性がとれなくなってくる。
・情報元が少なくないか
 通常研究は多くの資料を基に組み立てられる。例えば一つの本から引用を 多用している書籍などはその情報について怪しいと思った方がよい。

 これは今でも私の指針になってはいるのですが、一方で難しいなあというのはずっと思っています。「歴史的事実としての整合性があるか」を知るために必要なのは、やはり知識だからです。しかし知識を得るために読む本が正しいのかがそもそもわからない。あっ、これは詰んじゃってる。そんなことも思ってしまいました。

■3.わからない情報に立ち向かうこと

 それでも今は当時よりいろんなことを判断できるようになりました。それは、結局のところ学んでみたからなのでしょう。時には「偏った」考えに触れたかもしれないし、今でも偏っているのかもしれないけれど、それでも自分の考えはあの時よりはまとまってきているし、より多くのことを考えられるようになりました。だから、とてもとても不安ではあるのだけど、その不安に押しつぶされそうになりながらも、学び続けるしかないんだろうなとお思います。

 分からない情報に対してどのように立ち向かえばいいのか。私の答えは「勇気を出して学ぶ」です。「分からないもの」は、怖いです。そして結局、それに対して立ち向かいたいのであれば、勇気を出すしかないのです。たとえ間違っていたとしても、そこに勇気があれば価値はあります。その勇気は、未来に繋がっていくからです。

 今週は#検察庁法改正に抗議しますのタグがTwitter上を賑わしました。恐らく多くの人にとって「わからないこと」であった検察庁法の改正という問題がこのように取り上げられ、多くの人がそれについて真摯に考えているこの状況が、私にはとてもまぶしく見えます。

 私は、わからないことについて「気軽に意見を言うことができるようになること」は、それは少し怖いことなんじゃないかと思っています。発信するのが怖いことでないと、それこそ陰謀論のような無責任な情報が安易に広められてしまうのではないかと思ってしまうからです。現にSNSなどであふれる明らかに誤った情報の過剰な強さでの発信を見ていると、憂鬱な気分になってしまいます。
 けれども、発信することの怖さを分かっていれば、そこから発信に結びつくことは、非常に有意義ではないかと思います。それは学びにつながるからです。

 今回、これまで声をあげてこなかった人たちがタグを使って呟いているのを何度も目にしました。また、呟いた後で解説記事を読み自身の情報を更新していく人も多かったように思います。私はそこに「手軽さ」ではなく「勇気」を感じました。その勇気に押されて本件について詳しくない私も、今あるもので考えてみながら「#検察庁法改正に抗議します」と投稿しました。そうしたからには、私ももっと学ばないといけません。学ぶことが増えて大変だなあと思いますが、残念ながら当然なのでしょう。

 あれ、今回は「広島-原爆」についての話をほとんどしていない気がしますね。けれども「広島-原爆」は狭いテーマのようで果てしなく広がっている。だから、ハトノスをやっています。

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