17時 夜がくるまで

 あなたの力が必要なんです。

 目の前の男は確かにそう言った。一生のうちに言われる機会があるか分からないような、なんともこそばゆくなる言葉ではあるけれど、タダシは驚きはしなかった。すでに何度もその言葉をかけられていたからだ。要するに、慣れていたのだ。

 「あなたの力は知っています。」

 これが彼からの一番最初の呼びかけだった。その呼びかけをした人と今目の前に立つ男は別人ではあるのだが、今タダシに話しかけているのは同じ人物であるようだ。今思えば、非常に慎重に声をかけてきたのだなと思う。もしかしたら、タダシが気付く前からもっと遠回しに接触を図ってきたのかもしれない。そんなことは気付いていないのであればタダシにとっては関係ないのだけれど。

 タダシは最初「力」が何を指すのかわかっていなかった。だから、問いかけられても答えようがなかったのだけれど、一方で相手からのアプローチがあまりにも丁寧なものだったので、無下に断るのも悪いなと思わされた。だからいつの間にか相手と対話していたし、それでもやっぱり自分の力とは何なのかはわからなかった。

 何度も直接聞いたのだ。僕の力とは何なのか。その力は僕しか持っていないのか。なぜ僕なのか。それらに対して相手は丁寧に答えはするのであれば、それはタダシにとってすっきりと理解できるものではなかった。

「あなたは朝が来るのを止めたことがある。」
「今度は夕方を止めていただきたい。夜がくるのを、拒むのです。」

 自分がいつ朝を止めたというのか。記憶にないのだからわからない。だから夕方を止めてほしいと言われても、その方法がタダシにはわからない。わからないことに対して、首を縦に振ることはできなかった。

 そして、分からないままその日が来た。今日も相手はタダシの前に現われ、依頼をする。けれど、今日の彼はタダシに依頼を断られても去ることはない。一体どうしたらいいのかもはや途方に暮れているタダシに対して、相手はこういった。

「時間です。始めましょう。」

 いつの間に承諾したというのだ。タダシは結局まだ何もわかっていない。ただ太陽が傾きはじめ、夜が始まろうとしていることは分かった。けれどそれを止めることなんてできるはずがなかった。

 その時、彼が立つ川の向こうで犬が吠えた。どこか聞き覚えのあるその鳴き声にタダシはすぐにそちらを向くことができなかった。どうして。そう問いかける視線を相手に送るが、相手はさも当然というような顔でタダシを何かに促した。タダシは意を決して川の向こうを見る。

 向こうに彼がいる。確かにそれが分かった。タダシも彼に呼び掛ける。
夕焼けが川面を照らし、辺りは一瞬明るくなる。これからは暗くなっていき、闇が彼を飲み込んでしまうことをタダシは理解した。それは嫌だ。せめて、もう一度、君と散歩をしよう。タダシは歩きだした。もはやさっきまでいたはずの男のことは目に入っていなかった。橙に染まった川の色は、涙が沁みこみにじんでいった。

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