20時 夜の素振り

 コウタは素振りをしていた。周りの家の窓からは明かりが漏れ、街灯は虫たちを集めながら光を放っているのだけれど、一人黙々とバットを振るその姿は、それらの光のいずれにも照らされていないように見えた。

 今日の朝練でコウタはホームランを放った。これまでの野球部人生を通じて山の中までボールを飛ばしたのは初めてだった。そして、打った瞬間の手ごたえはやはり初めてのもので、コウタにとってはホームランという結果よりもそれを打った時の感触の方が喜ばしいものであった。それは、今までのバッティングと明らかに違ったのだ。投げられたボールを「打つ」というよりも、ボールを迎えて強引に押し込む感覚、これならば確かに飛距離が出るのも納得できた。野球用語では「引っ張り」というのだろう。そのあまりにも基礎的な野球用語と今日自分が初めて会得した感覚が一致していることで、コウタは野球についての自信を深めることになったのだ。

 分かりさえすれば、確かに「引っ張り」という言葉は妙に的を得ている。自分の感覚に既に言葉が用意されていることを知り、先人たちに追いついた感覚を得たのだ。コウタにとっては、それは嬉しいことだった。

 朝の感覚を忘れたくなかった。コウタは何度も素振りをする。目線の先には月をおいて、あれが打球の行く先であると定めてみる。月に向かって打つ、そんなことを言った野球選手もいたなと思いながら、コウタもそれを実践する。月とのあまりにも大きな遠さは「月まで飛ばす」なんてものの現実味をかえって見えなくしてくれた。そして、今日の朝のあの感覚は、どこまでもどこまでもボールを飛ばすことができる、コウタにそう思わせていた。

 ひたすらに、バットを振る男の姿が夜の住宅街に浮かび上がっている。彼は月に向かってどでかいホームランを放つ。その周りには無数の小さな星たちが輝いているのだけれど、あいにく月がまぶしすぎるので、他の星を見ることはできない。けれども確かに、そこは月の明るい満点の星空だった。

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