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試し読み!12月17日発売「ブルームワゴン」第八話

第八話 サッコ、3号を運ぶ


やがてぼくらは院長先生のお部屋がある階までやってきた。ガラス張りの長い廊下の突き当りに院長先生のお部屋はあった。その夜廊下の窓ガラスはほとんど割れて床に落ち、窓にはギザギザした枠だけが何とか残っていた。

その廊下はほかの場所より風の唸る音が大きく聞こえ、雨の混じった強い風が吹き込んでくるので寒く、ぼくは3号が濡れないように、またガラスが割れでもして飛んできた破片で皮膚を切ったりしないように、着ていたユニフォームの上着を脱ぐと3号をくるんだ。「嵐は怖いねえ」ぼくは白い上着の中を覗き込み、3号に語り掛けた。
いつもぼくが押している、赤ん坊たちが乗った台車の影を映すほどピカピカに磨き上げられている高価な石でできた廊下には、そのときは足の踏み場もないほどの割れたガラスと、泥のついた足跡で埋め尽くされていた。ぼくは時々ガラスを踏んでしまいながら、院長先生の部屋まで行こうとした。そのとき後ろから誰かが怒鳴る声が聞こえた。サッコ! とその声は言っていた。振り向くと、廊下の端に、小学校にいた用務員のおじさんと同じ仕事をしていることから「産院にいる用務員のおじさん」とぼくが心の中で名づけている男の人が立っているのが見えた。
「サッコ!」
という声がまたすぐに聞こえた。ぼくは彼に大きく手を振って、聞こえていることを知らせた。
「サッコ! 戻ってこい! おまえはお使いに行くんだ!」
強い風が吹き込む廊下で、離れたところにいるとは思えないほど、彼の声ははっきりとぼくの耳に届いた。彼は耳が悪いのだと看護師たちは言っていた。だからあんなに声が大きいのだと。
「それは緊急ですか!」
彼に負けないくらいの大きな声を出すつもりでぼくは怒鳴った。
「緊急だ! 緊急だ! 緊急だ!」

彼は「緊急」を三度も繰り返した。ぼくは回れ右して彼がいる場所に向かって走り出した。でも彼は、ぼくが彼の前まで辿り着く前に大声で用事を言いつけた。
「倉庫へ行って、そこにある木の板を運べるだけ運んできなさい! わたしもあとで行くから! できるな?」
「できます!」
とぼくは走りながら答えた。木の板を運ぶのは、3号を院長先生に見せたあとでもいいかどうか訊きたかったのに、ぼくの返事を聞くやいなや彼は階段を下りて行ってしまった。

ぼくは今度は階段を駆け下りることになった。外に通じるドアを開けた途端、息もできないくらいの強い風に正面から突き飛ばされて、後ろにひっくり返りそうになった。木の葉や枝が、上下に舞いながら目の前を横断して行った。雨が降っていたけれど、その雨は空から降っているのか地面から噴き出しているのか分からないくらいだった。ぼくは産院の壁の出っ張りにしがみついたり、庭の噴水を取り囲むようにして踊っている天使の像にしがみついたりしながらどうにか倉庫に向かって進んだ。ぼくはもちろん、腕の中に3号がいることをいつも確認しながら歩いていた。

産院の倉庫は大きくて、ふたつあった。でもぼくは倉庫へしょっちゅう行っていたから、どっちの倉庫に木の板が仕舞ってあるのか知っていた。倉庫は産院の敷地の一番端にあった。倉庫の脇は崖になっていて、何日も降り続いている雨のせいで少しずつ地面が崩れ落ち、いつもよりも崖の口が大きく開いているように見えた。そのとき空がカッと明るくなった。その次の瞬間、どかーんという大きな音がして、地面がぐらぐら揺れた。ぼくは3号を抱いたまま、悲鳴を上げながら地面に伏せた。するとぼくの悲鳴に気を良くしたみたいに、続けてもう一度、もっと大きな音がして、また地面が揺れた。

ぼくはまた悲鳴を上げてしまった。悲鳴を上げれば上げるほど怖くなるのに、やめることができなかった。ぼくは雷が恐ろしかった。雷の音を聞くと、何も考えられなくなってしまうのだ。
ぼくはしばらく地面に伏せたまま震えていた。でも雷が遠くに行った気配があったので、恐る恐る目を開けた。ぼくがそのとき見たものは、ぼくが行こうとしていた倉庫を丸呑みにしようしている大きな黄色い炎だった。大変だ、みんな燃えてしまう、とぼくは思った。あそこに仕舞ってあるロープやタイヤやシャベルや自転車や、それから木の板が燃えてしまう。
そのときぼくの視界がぐらりと急な角度に傾き、体が勝手に斜めになった。ぼくは足元の土もろとも、でも3号をしっかりと抱いたまま崖下に落ちて行った。

第九話につづく(毎週水曜日更新)

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