祖母の生活と記憶の記録

2016/10/30 曇り

祖母に会うにはふたつの準備がいる。時間と手土産の準備である。まずひとつめの時間について。祖母の生活リズムを崩さないように、昼時に訪れお昼寝の時間になったらお暇するのがここ数年のやり方だった。

今回のきっかけは先輩の親戚の話から。練馬区に住む祖母と新宿区で働く私。いつでも会える距離なのになかなか会いに行けなかった。...祖母はどうしているだろう。そう思い始めたら先輩と話をしている最中にも関わらず頭の中は祖母に会うことでいっぱいになっていた。
祖母の家に電話をかければ、いつもの声が聞こえた。電話の主が私だと思うととたんに明るくトーンのあがるあの声。訪ねたい日にちを伝えれば幸い用事もなく、簡単に予定が確定した。(ここで電話がつながらなかったり、予定が合わなければ、諦めようなんて心の準備をしながらも電話は簡単に繋がった。やっぱり今回は会うべきタイミングを間違えていない、と思った。)

祖母は父の兄である叔父と二人で暮らしている。叔父は私にとって叔父であるだけでなく、先生でもあった人だ。頭がよく、無駄なことを口にせず、しかし目ですべてを語っているような、そんな雰囲気を持つ叔父が私はちょっと苦手だった。彼に会わずに祖母に会えるかどうかも私にとっては大きなことだった。

ふたつめの手土産について。
去年の祖母の誕生日に会いに行って以降、祖母に会いに行く時には必ず手土産を持って行くことを決めた。私だけのルールかもしれないし、私が知らないだけでそれは世の中のルールかもしれない。「とらや」の羊羹、「高野フルーツパーラー」のケーキ。いずれも、よく遊んでもらっていた小学生くらいの時に、祖母に食べさせてもらったものだ。
新宿のオカダヤへ生地を買いに、荻窪のタウンセブンへ食材を買いに、外へ一緒に出掛けるときは決まって一緒におやつを食べた。大人になって、なんて贅沢なおやつだったのかと、手土産を選ぶ際にショーケースに並ぶ品々を見て思い知った。だから、今はもらった分を返す番だと思っている。
祖母に手土産を持って行くと、なにより自分も食べられる。普段のおやつには到底できないものを祖母の手土産を口実に食べられるのもいいでしょう。それに、食べている時は決まって思い出話に花が咲く。手土産にまつわる、私の覚えていない話、私しか覚えていない話、そういうちぐはぐな記憶を二人で共有するのがまた面白いのだ。記憶の濃淡は人それぞれで、その違いがひとつの食べものを介して露わになる。
今回は「ジャンポールエヴァン」のチョコレートケーキを選ぶことにした。丁寧に冷やされた店内で食べたチョコレートケーキの思い出がふと頭をよぎったから。
こうして二つの準備が整い、30日、祖母の家に赴いた。


久々に会った祖母からは、あまり万全の体調ではなかった。聞けば天気の不安定な日は、目だか脳だかがぐらぐらとするらしかった。それでも笑顔で迎えてくれた。
昼食は冷凍のチャーハンにわさび菜をトッピングして食べた。料理がすきで、手づくりのものが一番と言っていた、病気をする前の祖母からは考えられないことだったけれど、祖母はそれをすんなりと受け入れていた。ファミリーレストランや宅配ピザ、そして冷凍食品。祖母が避けてきたものが祖母の今を支えている。とはいえ、体調のよいときには、サラダを作ったり、魚を捌いたり豆を煮たりとできるときにできることをしているらしかった。よかった。先日は小平の角上で大きな鱈を買い、半分は甘辛く煮つけ、もう半分は鍋にして翌日はその出汁でうどんを食べたと言っていた。(できることなら私もそれを食べたかった。)
祖母はどんどん生活の仕方を変えているけれど、できなくなったことを嘆くことはなく、受け入れ楽しむ姿勢があった。


居間にあるカレンダーを見た。翌31日は眼医者の予約が入っていた。現在祖母は四つの病院に通っているらしい。女性の医師が二人、男性の医師が二人、どの方も腕がよいのはもちろん、親戚のように無駄話に花が咲くのが楽しくて会うのを楽しみにしていると言っていた。
二年前に入院をしていた時も病院を「大学」と称していた祖母の、そういうところが好きなのだ。


そんな病院と買い物以外で外に出られなくなった祖母だが、なんと旅行に行ってきたという。場所は千葉の館山市。
戦争が終わったすぐ後、家のない祖母が15日間お世話になった場所だった。お世話になった「ぬいさん」の話は聞いたことがあったが、まさか続きがあったとは。よくよく聞けば会わない間に二度も館山に行っていたという。天気や日によって体調の波がある祖母は外出をためらったらしいが、「誰だって旅先で体調を崩すことはある。みんな同じだ」という叔父の声かけもあって旅行にふみきったらしい。旅行の日はいずれも晴れで、「ぬいさんが見ていてくれたのかな」と言っていた祖母のやさしい目が印象的だった。
叔父と祖母の二人とも、美味しいお魚とその土地と人をいたく気に入ったそうだった。戦争が終わった直後も館山の土地には皿いっぱいの魚が食卓に並んだそうだ。「ぬいさん」の家は、その土地で名のある一家であったために採れたての魚が食べられたという背景があった。祖母が具に語る様子に、「ぬいさん」との時代が祖母にとってどれだけ大きく大事なものだったかが表れていた。


祖母は今、磁石式のボードをメモ代わりに使っている。カレンダーに一通り予定は書くけれど、普段座る席からは見えないから、大事なことは磁石式のメモへ書く。おそらく叔父の粋な計らいだ。達筆な字を披露してくれ、国語と地理が得意だったと語ったあと、初めて話すという思い出を話してくれた。
祖母は初等部の頃非常に成績優秀な上に、いじめをしている男子がいれば注意しにいくような、強い子どもだったという。「◯組の山口が来たぞ!」と男子に恐れられる存在だったとか、これは意外だった。
そんな祖母は級長も務めており、国会議事堂の開堂にともない天皇が訪問するお出迎えの日に呼ばれた。東京中の小学校の級長と副級長二人の三名ずつが、議事堂までの道に列を成す。ところが、やっとお迎えの時間になったと思ったら一斉に頭を下げ、通り過ぎるまで上げてはならないという。聞こえるのは馬の蹄がコンクリートを引っ掻く音、見えるのは馬の足下のみ。祖母はこの時初めて「身分の差」を感じたという。祖母は心の成長がはやかった。そして、今でも変わらず同じ心を持ち続けているような気がした。


東海道五十三次をしたかった。これもまた祖母から聞くはじめての話だった。かまぼこ屋を営む両親のおつかいで築地までリヤカーを引きながら自転車を漕いだことがあるくらい、自転車には強かったと得意げに話す祖母が可愛らしかった。
そんな自転車乗りの祖母がやりのこしたことが自転車で一人東海道五十三次を行くこと。戦争が始まり、家族をうしない、生きねば、そのためには、家(住処)を探さねばと祖母は強く思った。そうして祖父に出会い、母になって......
そんな祖母のやりのこしたこと。私は妙に切なくなった。どんな顔をして、どんな言葉を返したらいいか分からなかった。この話を聞いた時、私は孫としてではなく、対等な個人として扱われたようなきもちだった。それは古くからの友人のような....
昔の話、やりたかったことの話、私が大人になったから聞ける話のあれこれ。聞けることがうれしくもあり、たまらなくなって泣きたくもある。驚きと喜びと切なさと、いろいろ入り混じった感情のままに、それは祖母の次の命が巡ったときに果たしてほしい願いだと思った。でもまだお願いはしない。無論、祖母の生は続いているからだ。

大好きな祖母とあとどれくらい一緒にいられるのだろう。
おやつを食べながら、蕎麦茶を飲み、お互いの話をする。このしあわせなひととき。中身が違っても、営みの本質は変わらないそれ。2016年10月30日もまた、繰り返すことができた。

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