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それでも、世界は愛で溢れていると思いたい。

友人が一冊の本を贈ってくれた。
少しスピリチュアルな感覚を持つ彼女からの贈り物は聖書のような心の本だったのだけど、久々に半身浴しながら一気に読めるほどのボリュームだった。

この3年ほど、おそらく側から見ると私の人生は大きく狂ってしまったように見えるだろうと思う。
身内の不幸も重なったし、自分でもどうしてこうなったのだろう?と思う事がしばしば…いや、毎日思っていた時期もあった。

でも不思議と「不幸だ」と思ったことはなかったと思う…(「幸せ!」とも思えなかったのは事実だけど。)
いつも然るべきタイミングで助けてくれる人がいた。まさに捨てる神があれば、拾う神あり。根っからの前向きさも手伝って、どこか小説の中の主人公のような、映画の登場人物のような境地に至っていたのは確か。

両親がこの世から居なくなるという衝撃は言葉で表せない程のショックだったし、離婚は不幸の代名詞みたいものだ。

でも、それをもって人生を不幸であると提議するのは大間違いだ。
父は生前「いい時も悪い時もある」と口癖のように言っていた。彼の人生もそうだったし、8代続いてきた実家もそうだったから。

図らずも私が9代目を継いでいる。

巷には精神世界や宇宙に繋がる記事やブログ、書物が溢れているし、コーチングなる技術や資格を持って沢山の有益な事を私達に教えてくれる人がわんさかいる。
それだけ需要があり、人々が求めているのだし私も嫌いじゃない。

でも、正直に言って「全ての人に感謝しなさい」とステレオタイプに言われるのに反発する私がいる。
というか、まだまだその境地に達しないのだろう。

と思っていたのだけど、友人からの聖書のような本を読んで気がついたのは、
感謝の表し方が間違っていただけなのだな、という事でした。
そして博愛精神が強すぎるが故に(これに関しては両親の育て方を本当に恨んでいる)イエスノーが自分の事ながら分からずにいたという事。
それは密接に依存と共鳴してしまい、依存心の強い人を周りに産み、そして引き寄せてしまうものなのだ。

間違いなく私の中に愛はあるのだけれど、それを対等に行ったり来たりする関係性を作る事に弊害となっていた。
ただ、それだけのことだったのだと。

一連の一見不幸に見えるであろう事項を通して、私は私らしさを取り戻した。
私が人生で一番大切にしたい自由を。(それはワガママとは大きく違う、責任を伴うもの)その次は愛。
私の中にそれがある事は確認できた。
そして次は物質的な豊かさだ。

こうして、欲しいものはきちんと優先順位の順番で手に入る。
そう、それでも世界にはちゃんと愛がある。

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