けものフレンズ2について

『けものフレンズ2』において軸になっていた要素は3つあったように思います。うち2つはキュルルのおうち探しと人類の価値の両義性についてですね。

1のかばんがアイデンティティ喪失者だったのに対して、同様に記憶を失ったヒトである2のキュルルは、故郷喪失者としてパークをめぐります。

また、かつての人類の行いについては3・8話では肯定的に描かれていますが、5話ではその恐ろしさが強調されます。登場するフレンズたちのラインナップは良きにつけ悪しきにヒトの影響を大きく受けたものが多く見受けられ、またフウチョウたちもヒトの功罪を語ります。とりわけ人類の罪の象徴となっているのがビーストですね。やがてキュルルも、良き過去を写しとった贈り物であった絵が、同時にフレンズ型セルリアンを生み出すきっかけにもなってしまうという形で、ヒトの力の価値の両義性を引き受けることとなり、ヒトの生み出した様々なものの本来の意味がなんだったのかを問われることとなります。

さて、けものフレンズ2の軸となる3つめの要素は、何らかの形で存在する断絶を越えることです。

1話は、乗り越えるべき「危険きわまりないみぞ」という横線と、どこかとどこかを繋いでいくモノレールの線路という縦線が登場する話でした。

2話は壊れてしまった遊具を修復する話でした。また、4話はおうちを探していろんな物件を巡る作品全体の縮図みたいなエピソードでしたけど、問題解決パートで登場したのがジグソーパズルで、これも壊れてしまったものを修復する話だったよなと思います。

3話と8話は失われてしまった人類の文化をフレンズたちのもとに再生させる話でした。ペパプ回がそういうテーマをはらむのはけもフレ1の8話も同様でしたね。

5話と7話は対立するフレンズたちの不和を宥める話です。

そして6話と9話は何らかの悲劇によって良き過去を失ってしまった者たちの話であり、また悲劇に終わったとしてもそこにあった喜びは否定されないという話でした。6話はすべてが失われたと思われていたサーバルの記憶が、実は全部が全部無くなっていた訳ではなかった、楽しい旅がなかったことになどならないんだという話でしたし、また9話はイエイヌというやつが今の自分が救われることよりも自分にはおうちがあるという失われた過去への誇りと愛を選ぶ話でした。

10・11・12話はひとつながりのエピソードですが、10話ではキュルルの描いていた絵の良き過去を偲ぶよすがとしての意味合いがおみやげやさんにてクローズアップされ、11話では5話や7話の喧嘩していたフレンズたちが仲良くなりました。最終12話ではビーストとの共闘や、かばんとサーバルの再会の約束、時を越えて既にイエイヌへと贈られていたキュルルの絵についてなどが描かれていました。

とりわけ2・4話、3・8話、6・9話に共通なのは失われた過去にこそ良きものがあるのだということであり、また良き過去は失われてしまったけれどさあそれじゃあどうしようか?という様々なこころみです。

で、あまりメタな読解ばかりするのはダサいというのは分かっているのですが、それでもけもフレ2については思わざるを得ないのですが、これたぶん一貫してけもフレ1の話をしてますよね。

けものフレンズ2において、サーバルはけもフレ1でのかばんとの旅の記憶を(ほぼ)失っていました。

続編で前作の主人公が不幸になってるのって自分も基本的には好きじゃないです。ただ、けものフレンズ2についてはそれもありかなと思うんですよね。なんでかっていうとけもフレ1のその後になんらかの悲劇があったことは単に事実だからです。

ゴコクチホーへの旅がそのまま直接に悲劇に終わったのか、それともいろんな輝かしい冒険があって、その果てである日おもむろに悲劇が二人を引き裂いたのかそれはわかんないですけど(でも後者であってほしい)、でも悲劇が起きたこと自体はただただ現実で、実際にたつきはいなくなったし、われわれもそのうち死ぬわけで、いつか悲劇が訪れること自体は避けられないわけです。

たつき監督と破談になって、2でかばんを出すべきかどうかは判断の分かれるところだと思います。ですけど、いざ出すと決まった場合において、かばんとサーバルが元気に冒険してたらそれはやっぱり嘘だし欺瞞じゃないですか。忘れようがないですからねたつき監督がいないことを。

でも、そうして描かれたかばんとサーバルの関係が、ただ悲しいだけだったかっていうとそうじゃないわけです。2の6話は今代のサーバルの中にもかばんとの旅の思い出が残っていた、すべてが失われてしまったと思っていたけどそうではなかったという話でした。そして2の最終12話では、かばんとサーバルが未来での再会を約束するさまが描かれました。

悲劇は避けようもなく確かに存在するのだということを前提としつつ、でもそれを乗り越えて「また会おうね」「約束だよ」という再会の希望で終わるサブプロットをけもフレ2に盛り込みたいと2の製作陣の誰かが思ったのであれば、(それでもやっぱり前作主人公が不幸になってる展開は受け付けないと拒否したり、たつき監督のあとを受けた奴らがそういうことを言い出すのは面の皮が厚いわと退けたりしても良いですけど、それはそれとして)その気持ち自体は汲んでやりたいかなと思うわけです。

それと、かばんとサーバルとに結局何があったのかは全然描かれませんでしたけど、なんらかの悲劇があったことは現実の反映として、それ以上突っ込んだ具体的な出来事をたつきのいない場所で決めて良いわけないじゃんて思うので、なにも決めていないだろうことについてはとくに悪いことだとは思わないです。

諸行無常は世の常としつつ、良き過去から少しかたちが変わってしまったとしても再び出会いなおすふたり、という再会のロマンはけものフレンズの1においても、かばんがミライさんの転生であることの示唆という形で存在していました。

2の終盤でもそれは、かばんとサーバルの約束、飛んでいった帽子の砂浜への漂着、そして時を越えた贈り物としてのイエイヌ・カラカル・キュルル・サーバル・ミライさんはじめとしたスタッフの描かれた在りし日のパークの絵、といった形でくり返し描かれました。

けもフレというシリーズは、傑作であった1に悲惨な結末がつき、続く2は大不評となっています。けもフレ2は確かにアラの多い作品で、不評を買うのも故のないことだとは思いませんが、少なくとも悪意によって生まれたわけではない、こころねの良い作品だと思いますし、いつかこの危険な溝を越えて過去にあったような輝かしいものと再会する日が訪れると良いなあと願うものです。

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