愛を知らないこども、無償の愛を知る
*間違って消したので再掲載です。すんません。
"誰も私のことを大切に思ってくれない。理解してくれない”
そう子供の時に思うことがあった。
漫画やメディアから知った愛を思い浮かべて、"誰も愛してくれない"と学校の帰り道に呟いていた。
・子供だって親に愛されないことがある。
・世の中には、誰にも望まれず、愛されず、死んでしまうこどもたちもいる。
そんなのは、なんだかかなしい。
かなしい私は、子供のための仕事に就きたい欲を持ち、大人になって子供と接する仕事につく。小児看護師。
確かにそこで、難しい現実を見る。
望まれない出産だったり、養育ができないと実両親から拒否されたり、
疾患からいろんなことが難しい子供たちがいる。
その子達と関わる仕事をしながら、語るにも難しい現実もあると確かに知る。けれど、また知ることができた。
(あ、働きながら、満たされる私がいる。)
それに新人の日勤終わりの帰り道に気づいたのだ。
誰にも愛されていないと、そう呟いていたこどもだった私が、いま満たされてること。
私は働きながら知ることができた。
日々、多くの大人が、どうやったらこの子にとって一番いいのかなを、考えて行動していることを知った。
どうあれたら、この子にとって1番いいのだろう、と。みんなが考えている。
楽しく過ごせるか。
苦しくないか。
素敵に過ごせるか。
時間もない。
物理的に忙しい。
平等さはどうか。
安全が守れない。
だから。だけど。でも。
みんなが考えていた。
この子の日々が幸せになるようにとは照れ臭いし、言わない。
でも、いろんな人がそういう眼差しで働いていた。
どの子も笑えば、こちらも笑う。そういう日々。
暖かく寝れますように。
傷口が痛くありませんように。
お腹が空いたら早く満たしてあげよう。
制限される中でも遊べるといいね。
処置の我慢をいっぱい褒めよう。
今の思い出をたくさん作ろう。
たくさん、パパとママに抱っこしてもらおう。
新人時代の私も、毎日の担当のこどもが楽しく過ごせるようにしたい!は、できることは少なくても、バタバタ過ぎて結局できなくても、考えながら働いていた。
それを間近でみながら、
自分でやれることをやりながら。
あぁ私たちはどこかで産まれてきた中で、
誰かに必ず愛されているもんなのだなと思った。
このあったかい気持ちや周りの熱量が愛でなければ
なんなのだろうと思った。
私は大人になって、知れたのだ。
そういう暖かい目線に多少なりとも囲まれて、私たちはきっと今日まで生きている。誰かが大切に思ってくれている。
それは、見返りを求めない無償の愛だろう。私たちはそういう温かいものに囲まれている。
そう知って、そう思えて。
子供の頃の私はなんとなく救われた思いがあった。
しかし、まあ。
その愛は、仕事上だけだったり、関係性の中だったり。
忙しければ実践もされないようなもの。所詮、一過性のものとも言える。
それだけじゃ、本当に欲しいものはもらえない。
今考えてみると、”愛されていない”と呟いた時の、その当時の親もきっと親なりに私を愛していた。ちゃんとご飯をくれ、ともに笑う時間も少なからずあった。母なり、父なりの愛はそばにあった。
それでも、当時の私は愛されていないのでないかと感じ、それを抱き続けていた。
あったかい、無償の思いに囲まれていても
きっと私たちは気づかないものなのだろう。
きっと私たちがほしいのは、限定された有償の愛なのかもと思う。
誰かではなく、あなたから。こういう風に愛してほしい。そういうもの。
今日は話を聞いてほしい。
こういう時はそばにいて。
私の気持ちに気づいて。
なかなかそれは叶わない。
それでも、世の中に愛はないのではないかって、そう思っているよりは。
愛はそこらへんに転がっている、それを知れたことがすごくよかった。
世の中の捨てたもんじゃない部分。
そういうものも含めてで世の中は、ちゃんと出来上がっているよ。
悪いもんじゃないよ。そう、昔の私に教えてあげたくなる。
了
果ノ子
(消してしまったので、そのままにしようかとも思ったのですが、他の記事と繋がってるし…で再掲です。すみません。)
(〇〇なりの愛はきっと転がっているのに、伝わらなければないのと同じだったりするという事実。それを思うと「誰かとの愛」とは相互理解が、前提なのだなぁと。しみじみ。)
(あと書き直してて、世の中に愛はあっても、無償の愛自体が転がってても気づかれないなら意味ないよなと…なんか物悲しい虚無を感じた。えーっと、なあ。→ちょっと続き書きます。)(続きはこちらになります↓)
(世界はそれを愛と呼ぶんだぜ、の歌は好きです。)
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