分類するということ

分類すること。
あるべきものをあるべき場所に置くこと。要は整理整頓。
そういうことだけで、物事は大きく変わったり
付加価値がついたりする。そう思う。

わかりやすいところだと、ビーチコーミング。

砂の中に埋もれたガラス片を集めれば、それを使ってアート作品ができたりする。
流木を集めれば、アクアリウムが趣味の人に売れたりする。
砂つぶだって種類ごとに集めたら、地質を示す標本が出来上がる。

誰かが集めて。

集まったところに、集まったものに、
人々は集まってくる。


集まったものの中から
そのまとめられた同類の中から、人は選び、
何かは選ばれる。


ということで。

文章も、
集めること・分類することは、大切なことである。


もちろん人は砂浜から、特別な一つと巡り合う、そういうのも好きだけど。

わりと多くの人は、
アートを見たければ美術館に行くし
流木が欲しければアクアリウムショップに行くし
地質を知りたければ、すでにまとまった資料館に行く。

どんなにきれいな貝殻が落ちている砂浜でも
砂浜自体が無名であれば
そこに好い貝殻が落ちているんだよ、という誰かの風の噂でもない限り
この海岸に通ってくれる人はいない。

砂浜があるだけである。

そこを見つけるのは暇人か海好きか学者である。


人はできるなら、
何か「ほしい物」が、集まったところに行って
その欲しい気持ちを邪魔されることなく、寄り道することもなく
手に入れたい。そういう欲も持っていると思う。

バラードが好きで楽しみに行ったライブで
なんの手違いかジャズを聴くような時、
少しだけスイッチの切り替えがいる。
音楽を聴きたいのだけど、いや内実はそうじゃない。
私が求めていたのと違う。そう思う。


探す側は、きっと。

ここからは「こういうものをもらう」と
意識的にも無意識にも決めていると思う。

悲しみに浸るのはこの人の曲。
食べ物の美味しさを感じるのはこのひとの料理の本。
恋に関することはこの人の小説。
センセーショナルなことを聞くならこのニュース番組。などなど。
人は多分決めている。


ツイッターで恋愛系の文章が面白いなと思ってフォローした人が、
急に政治を語り出した時になんだかがっかりしたり。
企業情報が知りたくてフォローしたのに、
企業の部署内の日記が始まった時。

穏やかな気分になりたかったのに、悲壮的な話が増えた時、などなど。

求めていたもの以外の雑音が大きくなった時、
人はそっと離れていく。

そういうのだ。

もらいたかったものの質は落ちていなくても
人は「雑音」が耳に入るのを思ったよりも嫌がるのだと思う。

その雑音に心騒つかせるなら、
期待したり、思ったりしていない方からジャブが飛んでくるのなら、
そっと離れる。

私はほしいのはそれではない。

ということを、文章を書きながら
ときおり考えていた。


私は私を知ってほしいわけではない。
そして相手から見ても、この人の思考の全てを知ってみたい、という立ち位置でもない。(一定の知名度がある人は、その人がどんな雑音を出すかも興味惹かれるし、その雑音を知る目的で見に来ているコンテンツは、多様であることは嫌われない)

文章を読んで欲しいなら、誰かに何かを伝えたいなら
私もそろそろテーマ?を整えなければいけない、と。

音を整えるというか、
ジャンルを整えるというか。

まずは削ぎ落とす。


そういうことを考えたりしてる。



果ノ子


(これを言うとたぶんプロの方からは、なんやと思われそうだけど、私文章書いてて、一番の読者は私なんだよね。私のための私による、それ。)
(ジャンルを整えるとか、大衆に語りかけるとか、大衆が求めているものを意識すると言うのは、また書きたい部分と違う力を使うと思うので、それが上手い人すごいなーって思いながら見ている。「振る舞う」ができる人たちってすごい。もう少しプレゼンテーションを意識していきたいものです。)
(始まりから、読んでくれる人に届けたい!を意識した書き出しとか、アナウンサーかみたいな書き出しとか、上手い人すごいなーって思うし、場合によってはぞわぞわする。)
(個人的には学級新聞ぐらいな感じで、他者に読ませるを意識して文章書いてみたいな、と改めまして、思う。)


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