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物を読む・書くということの、酔い

noteで書かれたものの一覧を、
ただただ指で
スライドして見ているとなんだか少し酔う。

いろんな人のいろんな感情がこもった絵・文章を読むと、
街行くその一人一人が実は持っている
その内面の水深の深さと、けれど
日常からは垣間見えるものの少なさに気づく。


世界は物理的にも広大だけど、
内面も個々にひどく広大で、深さがある事実。

街行く人それぞれが、こんな風に物事を抱えているなら、
なんといろんなものが
世の中に溢れているんだろう。


多くの人が人に見せたくて書く、憧れた夢とか癖みたいなもの。
その肥大した感覚の、
吹っ飛んだ発想の種類の多さに圧倒されるし、
ワクワクする部分とその彩りの濃度の多様さに、疲れる感じもある。

暴走した熱量。一つの物事への結論の多様さ。
そこまでの飛躍。その道筋の千差万別さ。
けれど、なぜか似たようなところに着地する発想の不思議さとか。

理解しきれない部分も含めて、
そのそれぞれの価値観のズレと、
狂気さの多様さに、呆然とする部分がある。
場合によっては理解できなさに気持ち悪く思ったりする。


特にnoteは、
人とわかりあうための議論を発展させるための文章の発表の場所ではないし、見せるためのプロの文章ばかりではない。

だから、その書くことの狂気さが
新着のタイムラインを追ってしまうと、少し見えやすい。


例えるなら、
図書館の本棚を分類関係なくぶちまけて、
手当たり次第並べた、そのタイトルと前文を、それをはじから流し読みしていき、場合によってその本を手に取る、みたいな感じ。

そして、それらの本は
図書館とは違って、推敲されたものも、してないものもごちゃごちゃで。
書き手が書き手の使いたいように使って書いた、文章の位相が異なるものだ。

人が見える文章も、書き手が全く見えない文章もある。

場合によっては日本語でもパラレルワールドの日本語かな?と思うものもあったりして。
それがタイムラインや新着に、次々に表示される。

これがツイッターの短文なら、
「変なこと呟いている人いるなぁ」で済む言葉が、
あ、ちゃんと長文で語りたいほどそう思っている人がいるのね、って
びっくりしたり、明らかに(!?)と思ったりする。


またnoteの方向性として、
コンテンツを伝える活動を推奨してる面もあるから、
その中で、誰かに知ってほしいことを書くという熱量で溢れている文章。

それからは、どうしてもその物事に対しての傾倒度、"のめりこみ度"みたいのが、文章に現れやすく。

のめり込んでいる、そのことを人に伝えたい文章なら
それも楽しいけど、そうではない場合はその文章に酔う。
その「気づかれずに狂っている」文章に私は弱い。

そして、わたしもそう言うものを書いているのだろうと思うと、
少しだけから寒くなる。

写真からその狂気さは見えにくい。
それはレンズというフィルターと実際の被写体という第三者が介入されていて、現実のものであるという一定の共通認識があるからだろうなぁとかぼんやり思う。


多数の文章を無作為に端から読みすぎていると、
いつまでたっても脈絡が生まれないから、
人の寝ている時に見ている、
律したものがない夢を、無作為に覗いているような酔いを感じる。

夢は、自己整理のための脳の機能だ。
眠っている私が、夢に書き出して読み込んで頭の中を整理をする。

それと同じように、
起きている私は、起きている私たちは
文章を書くことで意識的にそれをしているのかなと思う。

だから文章を書いているのは起きている現実だけど、
人によってはその文章の内容が、夢に近いように思うのだ。


 見たいものを見て、それをより集める部分とか。
 誇大したものをさらに膨らまして行く行為とか。
 独善的になる部分。
 もしくは見たくないものも見てしまい、どうにもなく書く行為とか。


夢の中では常識とか重力とか秩序はなく、
自由にどうにだってできる。

それは夢を見ている、そして書いている本人からは必然性があっても、
見ている側からすると理解ができなかったり、飛躍する感じがある。

夢を見ている本人はその歪さに気づかない。


起きたときに変な夢を見たなって思ったり、
うわ、私狂ったか、と狂気さで飛び起きる夢を見たこともあるけど、
大半はきっと気づけない。
そのわかりやすいそういうのが含まれない夢も、
現実からずれたたくさんの狂気を孕んでいる。


そういうことは、夢に似た、文章にも
きっと表れやすいのだろう。

無作為にたくさんの人の文章を見ていると
書き手その人の秩序、着眼点に納得する前に
次に行くから理解できないものにたくさん会う。


「この文章、なにか理解できない。」
この感覚は別におかしいことではないんだけど(人は多様なんだし)
場合によっては、理解できない自分自身が矮小に見えたり、
自分の芯を基準に思って世の中を薄汚く感じたりする。

だから、時折距離を取る必要がある。

 その文章は私だけど私でないし
 人だけど人でない。
 ただの言葉だ。


人に観察されていない言葉、
書き手以外の主観を視点として含んでいない言葉は
所詮夢だから、真に受けなくていいのだ。きっと。

世界は観察することで形成されている、だっけ?
神様は観測されることで世の中にあるみたいや、哲学の。認識が世界を形作るみたいな考え。

私たちが書く文章は、人を意識していないものも多い。読まれる誰かを想定していないもの。観察をしていないもの。
要は誰にも覗かれない前提の夢と同じもの。


それは良くも悪くも所詮夢だ。

ネットが肥大して人を介さなくても
その意識みたいのだけを考える→コンピューターを使うで
人と手軽に共有できるようになってきて。
その文も人の意識だからと、そっちのほうを重要視しちゃうけど
本当は、肉を使って、人を認識して
人との関係性の中で作られ発せられる言葉が、
物理の中で存在するものがきっと本物なのだ。

あんまり意識に踊らせすぎてもいけない。

書いている文章ではなく
コーヒー入れつつ、だるい格好でパソコンに向かい合って日が暮れる。みたいな、そっちのそれも本物だ。

せっかく肉体があるのだし。私が過ごしたいのは、
書くという夢(寝ている時の)の世界ではなくて、コーヒー飲んだり、部屋を掃除したり、仕事したり、笑ったりする、こっちなんだろうなって思う。

そのバランスは覚えておきたいなあとか思いつつ。


しかし、今日も肌寒い。


果ノ子


(書きながら、今敏のレプリカ、あの狂気さを思い出してた。あれは、濃い映像作品だったなぁ。夢の中でいつのまに狂気に飲まれるをすっごい絶妙さで描いてた。)
(後、攻殻機動隊の世界。)
(人の間で意識と肉体、どうしても意識に重きを置かれがちだけど、世の中のあんまよくないこととかってそのバランスが過度に傾いたりした時に起きる気がする。思想に突き動かされる、みたいな。)
(編集者さんてきっとその肉の部分のバランスを取る人なんだろうなって思う。)
(しかし狂気さをテーマに書いていると、書いている自分の文章も狂ってそうで、この文章書ききれずずっと、下書きにあった。でも整理できないを含めて、それも私だし、狂気が含まれていても、まあ。ゴミ出し見たく出してしまおう。)
(いつも、いろんな人のフォトを借りているけれど、個人的に「文章の中和が図れる」「逃がせる」みたいな遊びを作れるところが好き。その分文章を思う存分濃くかける。濃い文章にその濃度にあった写真、全てわたしで構成させるのは、ちょっとわたしには難しい)

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