言葉を出した後のから寒さ

伝えるために発露した言葉が、キャッチされなかった時の
ぽっかりとした気分は本当になんとも言えないものがある。

から寒さと、後から猛烈に背中から迫ってくるような恥ずかしさと。
自惚れた自分への罰を与えたいような気持ち。布団に入って、ひとまず顔を覆って電気を消した部屋に沈んで溶けてしまいたいようなもの。

けれど、大人になったから同時に知っている。

言葉はそのまま受け止めてもらえるものでも、そうない。

言葉には伝えたい・共感して欲しいの他に、ただ身の内から出したい。
そういう種類のものがある。

言葉にするという行為には、その言葉を受ける対人がいることが想定する。その人に伝わらなくて傷つく。受け止めてもらえなくて傷つく。
その言葉自体が重荷になることに傷つく。

大切な人だからこそ傷つけたくなく言えない。
大切な人を傷つけることは自分が傷つくことだから。

そうやって、私たちは言葉に慎重になる。


言葉に慎重になると、言葉が身に溜まる。
それはそれできつい。


言葉をどうするか。
過去にはカウンセリングで話を聞いてもらったりした。

カウンセリングのいいところは、「聴くという役割を生業にしている人」に「金を払って話す」ことだと思う。身も蓋もないが。
多少乱暴な言い回しであるが、その前提だから「相手の傷は気にしなくていい」「泣かれるのも仕事だし、慣れている人たちだから泣いてもいい」という意気込みで、余計な心配なく言葉を出せるということだった。

ただカウンセラーさんでもアドバイサーに近い人もいて、話を聴いてくれるが決めつけやが強くて続かなかった。
専門職ではあるが、対人で合わない人会う人がいる。仕方ない。


んじゃあ別の方法として。
溜まっていく言葉を、どうするか。

アートとして消化するかな、何か創作しようかなぁ。
経験談を纏めようかなとか思っていた時、知人に「詩のワークショップ」に誘われた。


ワークショップ。詩や散文を一編持ってきて、読み、お互いに感想を言う会。それに参加することとした。

創作した言葉を音読するのは小学生以来経験がなかった。

書き殴っていた文章や散文の中から今まで出す機会がなかったもの。
相手に痛みを与えるかもしれない、けど発露してみたいもの。
これを言葉にしたら何か変化があるかも、そう思うものを選んでワークショップに持って行った。

会の詳細は省くけど、
言葉を出すそのことにドキドキして、その熱がとても楽しかった。

その経験をして。
詩なら色々なものをそのまま出せるなって思った。

詩はオチがなくてもいい。
結論がなくてもいい。
感情的でもいい。
詩はその人個人のものだから、(厳密には違うが)人を傷つけるリスクは色々なものに比べたら小さい。


詩と言う分野を知って、私の中の言葉での表現に一つ自由さが増えた。
ふとした時に詩に似た散文を書くようになった。


そしてしばらくした後、
2回目のワークショップも参加した。

その時は、共感性は得れないだろう、発露してみたかった子供の時の秘密みたいな、そういう詩を持って言った。

詩の感想って、情景を浮かべるところだったり、そこから引っ張り出された感覚見たいのを伝え合う感じで。私の詩は良い詩と言ってもらえても、明らかにほかの人がなかなか感想を言いにくそうな感じだった。
共感性が得にくいのはそうだろうなって思ってたから、そこに残念感はなかった。

ただなんだか前回に比べて、初回の興奮がなかったぶん、詩を読んだときに詩を手放すさみしさ、そういうのを感じた。

私はこの詩に多くの時間をかけて、大切に育んだのだけれど、それが人の手に渡れば、ただの音で幾多あるうちのただの一つになる。
そのことが寒く、さみしいことに感じた。


身のうちに残しておいたら、私の中ではいつまでも大切な言葉なのに、
外に出すということは、それがなくなって空っぽになるということだ。
詩を言葉にするっていうのは、そんな気分になるんだなと知った。

詩を作るだけならば、この身は満たされ温くなるけれど
言葉を詩として出すことは孤独なんだなあと思う。

多分それはこういう記事を書く、ということも一緒なのだろう。
それ自体は、から寒いことだ。
言葉を出すことは孤独なこと。


だから、安易に誰かに届くように画策したくなる。
人を求めてしまう。
人がいいねと思うものを作りたくなる。
見てくれる人を気にしてしまう。

もしくはそれがうまくいかなくて、
寂しくなるくらいなら虚しくなるくらいなら、言葉を出したくなる。


そういうことを考えていて
ただ、しばらくはちゃんとから寒さを味わいたいと思う。

私は、私の内側の言葉をいろんな形で外に出して、出して。
それで空っぽになったところにまた形成される、私の姿を知りたいのだ。



ということで、言葉の話。おしまい


果ノ子

(こういう言葉の話を考えると、アートとデザイナーの違いとかそういうのも考えます。作ることは排泄行為としてしているか、より外部が良くより楽しくでやっていくか。どこに重点を置くか。デザインとしての文章だったら、空寒くなってないで外部とのすり合わせが大切。伝えることが主軸なのだし。)
(より自己プロデュースを考えれば、noteを書くのもテーマ絞ったほうがいいんだろうなって思うけど、まあ私にとってはまだ排泄行為です。文章書くのは。)

(カウンセリングのことを少し。
基本悩みのアドバイスをする場所じゃなくて、話すことで自己整理をする場です。ので、相手の傷は気にしなくていいというのは→相談者の相談内容、表出内容でカウンセラーさんが色々思うのはカウンセラーの自身の問題であり、それは、金払ってるし気にしなくていいと思ってます。また、泣かれるのも仕事だから泣いてもいいというのも→というよりは、泣いた方が自己整理されそうなら変に我慢せず出したほうがいい感じです。肛門科に行ったら尻隠しても仕方ないのと同じ。そういう反応を受け止めるのが彼らの仕事です。高額なお金を払っているし!
ので、堅苦しく考えず、カウンセラーは誰にも言えなかった話を口語として話す練習をする場所として、もっと活用されるといいなあと。高いけど。
「辛くてなかなか人に言えない話を整理のために話したい」「誰かに言いたいことがあるけど、言えないからその練習に行く」っていうのもアリだと。逆にアドバイスもらおうと思うと拍子抜けしたり。逆に弱ったところにとどめ刺してくる人もいるので、合う合わないが難しい。)
(あとは昨今、〇〇カウンセラーっていう名称がいろんな分野であるから、臨床心理士がある人とかの方がいいのかなぁとか。個人的には思います。)

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