図書館にて (+書く読む談義)

病院の帰り、図書館に行った。
なんでか、あの「静かである」が普通の空間が好きだ。
文字とにらめっこして、ただ棚の前に立ちすくむことを
許された空間が好きだ。

静かでいることが、最適であるとされる。
思えばそういう環境は好きだ。美術館。音楽ホール。
呼吸をそこに忍ばせるみたいな空気感。

あいうえお順にならぶ、本の背表紙に久々にワクワクとする。

知った名前も、見覚えもある名前も。
いっとき読んで、購入しても、
もはや手元から離れた、当時の本たちが並ぶ様。

私は、図書館があるから、本を手放せるのだと思う。
私以外の誰かが、この私が大好きだった本を
私の代わりに持っていてくれるから、安心して、
すぎた思い出ごと失くしてしまえるのだろう。

本も本以外のものも、
誰かにゆだねて、お願いしてしまっているおかげで
私たちは家を大きくすることに、持てるものを増やすことに躍起にならず
雑多に扱い、身軽で入れる。


電子書籍や、書物というほど編纂されていなくても文章データとして有益なものたち、そういうものはどうなって行くのだろう。

図書のこれからを想像すると果てしない。

人が文字を使うようになって。
文章としてまとめられたものが手書きで写し合わされる時代から
印刷技術が確立して。
この数十年で、書くも読むもデータとしての扱いが一般化した。

紙として印字したものの価値や
今後の変遷とか

死ぬまで、どんな風に変わって行くのかなと、
私はなんだか穏やかに、楽しみに思う。



果ノ子

(文章をそれっぽく、思ったことを書いていく。これは楽しいけど、ちょっとだけ、ライターごっこに飽きてきた私がそこはかとなくいる。
詩に関しては、私が出したい気持ちに先駆者がいると、なんだか、クワーッと悔しくなって、でも書きたい、なんだけど。文章って違うのだよね。

書いていて、同じ、ピタッと会う他者がいたら、その人の文章を読みたいと思う。それにつられて「あー私も書きたい」よりも、読んで、自分の中のズレとかポイントを吟味したい感じになる。書くことよりも、読む。
「書くために在る」、「読むために在る」「在るために書く」よりも「在るために読む」が近い。

例えば、一冊読み終えて、今感想を書きたくなる私もいるけれど、たぶん私がするべきなのは「書く」よりも「在る」なんだと思う。
あり方の問題。書くことで整理されるには、技能が足りないきがする。

そして、改めて。私、エッセイより物語から力もらう方が好きなんだなあと。多分「人に感化される」っていうのが苦手だからこそ。所詮おとぎ話という逃げが欲しい感じ。)

(会話劇を読んでいて。相変わらず場面転換がない話だよなーと思いつつ、まあ考えてみれば、おとぎ話でなくて人生だって場面転換の種類よりもショッキングな出来事の有無よりも、誰かとの会話でのやり取りでのなんとかが、大きいものだよなってふと。)


過去の書く読む話↓(noteが増えると過去の記事っておいにくくてそれが微妙だよね。一行一覧リストが欲しい。)


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