「感動」のメカニズム―映画を何度も観るか観ないかという議論から考える―

 先日、興味深いツイートを見つけた。

 見覚えのある方もいらっしゃることかと思う。

 この登場人物―主人公と「同期」の、どちらの気持ちもよくわかる。自分は同じ映画を複数回観ることは基本的に無く、『同じ映画を何度も観る』という行為、文化、慣習には普段から馴染みがない。すなわち「同期」と同じ立場になる。これを読んでいる皆さまがどうかはわからないが、きっとおそらくこのツイートの反響を見ると、この主人公は、少なくともマジョリティではないのだろうな、と思う。

 決してその、マジョリティではないという現状に異を唱えたりするわけでも嫌悪感を表明するわけでもなく、このこと自体について考えてみたのが本稿である。


鑑賞と分析

 まず、①同じ映画を何度も観る派、②~何度も観ない派、この両者において、対象に対する「触れ方」がそもそも異なっているように思える。対象の「受け取り方」、「インプットの仕方」とも言うべきか、それが根本的に違うように思える。端的な言葉で言い換えるならば、①は映画を「鑑賞対象」として、②は映画を「分析対象」として捉えているように感じるのである。

 また、少しややこしくなるが、本稿は対象に触れる「回数」についてを厳密に言及するものではない。対象に触れる回数が何度であろうが、根本的なスタンスが違うのであれば互いに別物でしかありえないということが述べたい。

 このタイミングで補足しておきたいが、今回このツイートでたまたま「映画」が取り上げられていただけであって、ここには割と様々な「作品」が代入されうる。音楽、建造物、絵画、料理、小説。その他さまざまなものが当てはまると言えよう。

 作品にはそれを構成する要素がある。例えば映画や小説には「登場人物AとBの関係性・斯々然々の事件が起こった・最終的にこのような形で幕を閉じる」というような要素。音楽であれば「この曲の構成はこう・拍子は〇分の〇・BPMは云々」というような要素。建造物や絵画は「いついつの時代に制作ないし建造されたもの・〇〇という技法が用いられている」等々。料理なら「材料、調味料、調理法」等か。

 「分析」のし易さのようなものは作品の種類によって差異があるにせよ、その作品の要素や構成のされ方は、作品に触れることで、第三者に説明できるレベルで自分の中で咀嚼、理解=分析することができる。一度で理解ができなければ、複数回に分けてその作品を分析すればよい。上で述べたことを繰り返すが、「複数回その作品に触れるのであれば、それは分析ではなく鑑賞なのではないか」という反論は(ここでは)通らない。当該ツイートに登場する「同期」にとって、映画というのは、一度触れれば(自分にとって)分析が十分に可能な対象なのであろう。そしてだからと言って、ここで「同期」が主人公に向けた疑問は「あなたは映画を複数回観ないと分析ができないのですか?」というようなものではない。もっと根本的な疑問である。すなわち、自分と相手の間にある「触れ方」の違いに対して向けられた疑問である。

 当該ツイートに連なるリプライの中にも散見されるように、「好きな料理や好きな曲は何度も食べるし何度も聴く、それと同じだ」という意見が、このマイノリティ思考を最もわかりやすい形で肯定し正当化している。そして、例えば映画を二度も観るなんて考えられないというようなマジョリティにも、この指摘は真っ当に刺さるのではないかと思う(拝察に留まるが)。全うに刺さったうえで、しかし彼らが「映画を複数回観る」という行動を以後起こすかと言えば、おそらく起こさないであろう。それは恐らく、「彼らにとって映画というものが、そもそもとして鑑賞対象ではなく分析対象だから」ではないだろうか。

 これは、ひとえにマジョリティの感性が浅はかだとか、そういうことを言うのでは断じてない。人は時として、作品に触れるにあたり、分析という行為自体に満足感を得、感動を覚えることができるということが言いたい。

知欲に基づく「分析がもたらす感動」

 アリストテレスの言葉にあるように、人は知を欲する生き物だと言われる。謎めいた雰囲気を醸し出し、所々の肝要であろう部分を意図的に隠された映画のコマーシャル映像。それらを見せられて我々は、その隠された部分を知りたいと思うのである。なぜ主人公がかのような行動に至ったのか。彼はなぜ死んでしまったのか。なぜ二人は恋に落ちたのか。なぜ別れが訪れたのか。それを知りたいのである。その答えを知るために映画を観る、という動機は決して奇怪で稀有だとは言えないはずである。そうしてその謎を、答えを知ることで、人は達成感、満足感、ひいては感動を得ることができるのである。これが、鑑賞をせずとも、分析がそのまま感動に繋がるということの所以である。

 この主人公も「同期」も、どちらもしっかりと彼らなりに映画を「観」、そして感動をしている。しかしその、感動を得るにあたっての方法と、感動の根本的な種別が違うのである。

 料理や音楽は(映画のような)謎を持たない。この「映画のような」というのは様々な意味を持つ。「美味しさの謎」を解き明かしたい、というような気持ちで我々は料理を食べないし、この曲の構成がどのようになっているかを知りたいという動機で音楽を聴くことはない。そして一概には言えないにせよ映画というエンターテインメントビジネスは、またそのプロモーションは、ある意味で我々にその内容を知りたいという衝動を芽生えさせ扇動することが肝要であるとされているのではなかろうか。そのようなスタンスに基づき展開されるビジネスの上で、我々は知らない間に、映画を観るという行為に、「知ること」そのものについての欲求を満たすという行為を重ねているのではないだろうか。映画という作品を分析対象とみなす層にとっては、映画というのはその欲求に駆り立てられて観るものなのであろう。我々一人一人の感受性の違い、感動を覚える閾値の違いが起因し、作品自体のみならず、その受け取り方自体に多様性が生まれているのだ。

 ここまで書いていて不安になるが、ここでしたいことは「現代日本に警鐘を鳴らす」でも「マジョリティの感性レベルの低下を嘆く」でもない。そのようなことは微塵も思っていない。単なる考察であるということを念押ししておく。

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