「退屈な仕事」が「ゲーム」になった日。

(この文章は2014年頃、社内向けに書いた文章の転載です)

仕事のターニングポイント;
和歌山県・白浜でのバイトが自分を変えた。仕事がおもしろいと思った始めての体験。 いまは会社で偉そうにしているが、僕は使えないアルバイトだった。


1、「K製作所」での箱詰めその①

一番始めに仕事をしたのは、中学時代に父の会社「K製作所」の箱詰め作業。兄と姉が時給700円くらいで手伝って、当時確か毎月1000円くらいの小遣いだった僕は、夏休みに何万円ももらっているのをみて信じられないような目でみていた。

当時は大阪・八尾市の小さい工場。自転車で20〜30分の距離、扇風機がきかない真夏の中、おばちゃんにまじって作業をする。作業は箱詰めをしたり、1000本になるように測りで測ったりする、単純作業。20分くらいたったかな、と思って時計をみると2分くらいしかたっていない。つぎこそは20分くらいたっているかな、思うと3分くらいしかたっていない。しかも生まれて初めての立ち仕事で、体力がないのか吐きそうになってくる。家にいるときと全く雰囲気の違う社長モードで鬼のような親父が怒ってくる・・。初日でこりごりになったのを覚えている。地獄のような時間。結局きつすぎてほとんどいかなかった記憶が有る。戦力度下の下。

2、ラーメン屋

大学になってしたのは、青山町にある喜多方ラーメンという店。ここは始めての家以外のアルバイト。忙しくなったら、怖くなる。ミスしたり、怒られるのでは、と恐怖を感じる。注文が入ったら、その数のラーメン鉢を出して、ラーメンタレをいれて、用意することになっていた。それから厨房の人が麺をいれてスープをいれて、としていく。いつも焼き飯をつくるのが好きだったので、どんぶりを後回しにしていたら怒られた。
高萩さんという金髪の兄ちゃんに「さっきも先にどんぶり作れっていったやろ!」とすごまれた。巽さんという茶髪の主任さんにいわれた。「ここであかんやつはどこいってもあかんで」この言葉はなぜかいまも覚えている。一生忘れないだろう。事実そうなのだ、そこでだめなやつが他でいけるわけがない。そして僕は3週間くらいでやめた。怒られるし、仕事が難しいし、なにより怖かった、昼の忙しいときなんて、まさに恐怖以外のなにものでもなかった。ぼくはそこから逃げた。親父に怒られた。「なんでも続けろ」 。戦力度下の下。

(以下、4000字程度。レストランバー → うどんや → コンビニ →「K製作所」での箱詰めバイト → 白浜でのリゾートバイト→「K製作所」での箱詰め③)

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