萩原慎一郎『滑走路』
「抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ」(萩原慎一郎『滑走路』より)
その三十一文字に出会った瞬間、短歌というものは、どこか遠い言葉ではないのだということを知った。小説は好んで読むものの、短歌や俳句はさっぱりだった。かろうじて国語の教科書と、吉野弘や茨木のり子の詩集、最近の方だと最果タヒさんの詩を少し読んだことがあるくらいだ。
この『滑走路』という歌集と出会ったのは、まだ2017年の頃だ。新聞の、書評記事で目にしたのがきっかけだった。勤め先の書店では短歌のコーナーはほんのわずかだが、この1冊をどうしても棚に並べたいと思い手配をかけた。
作品の紹介にはたびたび「非正規雇用」の謳い文句があり、私自身も非正規の身だったこともあり、「いつか読みたい」と心の本棚にしまいこんでいた1冊だった。
ほぼ最低賃金で働く人間にとって、自分の時給の2倍近くもする単行本を購入するのは困難だ。正社員であれば、ボーナスがつく。だが、非正規である私達にはそれがない。手取り13万どころか、それにすらたどり着かない人間もいるのだ。
今から、もう10年近く前のことだ。以前勤めていた書店が、テナントとの契約の関係で閉店した。別の店舗への異動を希望したもののそれは叶わず、その書店チェーンの関連会社を転々とした。どうしてか私が異動した先は合併による吸収や職場の移転などが続き、いつしか私は心療内科の扉を叩いていた。
その後ふたたびある系列店の裏方で働くことになったのだが、その際、住んでいる場所の近くにフランチャイズで出店が決まったことを知った。それが、現在の職場だ。
直営店ではないことも、その商業施設の従業員となることも納得した上で、私は面接を受けて無事採用された。それまでもほぼ最低賃金の暮らしを送っていたので、契約社員として勤められ「ボーナスが出ること」が、どれだけ嬉しかったかしれない。
その希望が、入社してわずか2ヶ月で打ち砕かれた。契約社員という枠組みそのものが、なくなってしまうことを知らされた。
書店のない店舗へ異動の可能性の高い正社員となるか、それともボーナスもなく時給制でずっと同じ場所で契約を更新し続ける、ほぼアルバイトのような不安定な立場となるか。その、2択を迫られた。
棚卸し以外では残業代もつけてもらえず、人手不足でスタッフ総出で早出して作業をこなそうと、閉店時間を過ぎても来客が途切れずレジ締めや閉店作業が遅れようとも、そのぶんの賃金はプラスされない。
さらにお中元やクリスマスケーキを紹介せねばならず、当然自腹を切るしかない。それ以外にも「紹介」という名目で自腹を切るはめになるものが多く、何かと出費が続いた。
「他の勤め先を、探せばいい」、そう思う人もいるだろう。けれどここで、単行本版の解説を引用することをどうか許してほしい。
“それなら辞めて別の仕事を探せばいいのではないかという反応はあるだろうが、そうしないのは、どこに行っても現実は五十歩百歩ということを知っているからである。”
もともと私は、就職氷河期世代と呼ばれる人間だ。この世代は正社員として働くことができなかった人間も多く、搾取されることには否応なしに慣れている。おそらく悲しいことなのだろうが、慣れてしまっているのだ。私は、元々ずっと〈こう〉だったのだ。
つねに安く買い叩かれ、それでも必死に「収入を得られる生活」にすがりつく。かつて地元でアルバイトをしていた際、やはり同じように就職できなかった、かつての同級生とアルバイト同士として同僚になったことがある。互いに過去の話題はただの一度も口にせず、目を反らしあい、ただ淡々と各々の仕事をこなした。
まだ、就職活動をしていた頃の話だ。100社どころか、アルバイトも含めたら200社近く不採用となった。同じ時代でも仕事にありつけた人間もいるのだから、きっと私に努力が足りなかったのだろう。他の誰かが難なく進んでいく人生のレールから、完全に反れてしまったという実感だけはあった。
新たにオープンする書店でこの手で棚を作ることができ、ふたたび紙の本にふれられることが、どれだけ嬉しかったかしれない。何より、学生時代も社会人となってからも、さまざまな場所で嫌がらせにあってきた私にとって、こんなにも真っ当に優しく接してくれる人達との出会いは信じがたい驚きだった。この人達とともに、「働きたい」と願ってしまったのだ。その選択の結果、今もここにいる。
私が最初に『滑走路』に惹かれたのは、間違いなく「非正規であることの悲痛な叫び」を感じ取ったからだと思う。新聞の書評に掲載された本のコーナーを担当していたこともあり、その評判の高さは幾度となく目にした。
ままならない現実の中で、必死に言葉を探しながらもがいている著者の言葉の力が、私を呼んだ。ごくたまにだが、そういう1冊がある。手にする前から、こちらを「呼ぶ」のだ。
パラパラと手に取ったことこそあるものの、店頭に並んでいる商品をそう眺めるわけにはいかない。「いつか、必ず」そう思いながら、なかなか読むことができなかった。
それから数年が経った2020年、文庫の新刊リストに、そのタイトルを見つけたときの驚きときたらなかった。萩原慎一郎『滑走路』と、確かに角川文庫の新刊案内にその文字が並んでいた。値段は、本体580円。文庫なら、何とか買える。私はその1冊を、発売日に手に入れた。
手にした『滑走路』は薄くて軽く、どうしてかこの手にするりとなじんだ。カバー写真はこの上なく作品に合っており、朝焼けなのかそれとも日の沈む瞬間なのか、空に向かって伸びていく滑走路の明かりがわずかに滲んだように光を放っていた。
ページをめくるとすぐに、冒頭でも紹介した三十一文字があった。
「抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ」
何度も、この一首を紹介することをどうか許してほしい。それほどに、強く私の中にくい込んできた。
幼い頃から、貧しい家庭で育ってきた。家の中はつねに荒れていて、学校では居場所がなかった。イジメ以外で同級生と言葉を交わすこともなく、自由に使えるお金もない子どもが1人でも通える図書館に入り浸った。
萩原慎一郎さんが三十一文字の世界に惹かれたように、私もまたページの中で発光する物語の世界に没頭した。
「三十一文字で鳥になる」のではなく、「鳥になるのだ」という響きが、私を惹き付けた。まるで自らに言い聞かせているような、それでいて読み手をも鼓舞してくれるような力強さ。そう、言葉で、いくらでも鳥となって羽ばたけるのだ。たとえ各々の抱えている現実がどのようなものであったとしても、私達はそれぞれの心を解放しても許されるのだ。
それ以来、この『滑走路』を寝る前に手にする日々が続いた。
「今日という日もまた栞 読みさしの人生という書物にすれば」という一首に歓喜し、「この街で今日もやりきれぬ感情を抱いているのはぼくだけじゃない」という一首には、その思いを重ねた。なかでもやはり、非正規であることの苦さを歌ったものには特に思いを馳せることとなった。
私は、短歌の世界にはあまり馴染みがない。だからこそ、彼の放つ三十一文字が新鮮に響いた。すべての歌が、するすると沁みこんだわけではない。正直に言ってしまえば、よくわからないと感じたものもある。でも、それでいいのだと思う。
この「わからなさ」を組み立てて、私は私だけの『滑走路』という作品を何度でも味わいつくすのだ。そうすれば、何度でも萩原さんの思いをこの世によみがえらせて、つなぎ止めておけるような気がする。
文庫版の解説で、又吉直樹さんがこう語っている。
“萩原さんの短歌には不思議な魅力がある。実際に人間ののどを通って発せられた声のように現実味があり、人に寄り添い思いやる優しさがある。
息苦しさや痛みを感じる歌もあるが、そこから立ち上がろうとする強い意志が詠まれた歌には励まされる。”
私にとって、萩原さんという方は白いシャツの似合う誠実な青年といったイメージだ。彼の詠む歌は、誰かに向かって放つというよりは、彼自身の中へと降りていく対話のようにも思える。収録されているどの歌がどう響くかは、きっとそのときによって異なるのだろう。
この『滑走路』という作品は、11月20日から劇場で公開される。いったい、どんな作品になるのだろう。だが一番近い映画館まで行くのに交通費が往復2000円近くかかり、さらにチケットは1800円はする。まったく食事を摂らないわけにもいかないので、あわせて5000円ほどにはなるだろう。その、5000円をためらってしまうのだ。
ただでさえ懐が寂しいところに、昨年の秋にある奇禍に見舞われてしまった。どこか遠い世界だった出来事が私を襲い、住む場所も失った。かつて家だった場所には、今は雑木だけが伸びている。生活に必要な物を新たに揃えなければならず、大幅に出費がかさみ、たった140円のコンビニのおにぎりすら買うのをためらう日々を送ってきた。
現在は公費負担の住居に暮らしているが、いずれはここも出なければならない。その時の引っ越しにかかる費用や家賃、今は住んですらいない土地の固定資産税を思うと眩暈がする。父はとうに亡くなり、今は高齢で持病のある母と二人暮らしをしている。こんな状況で、そう贅沢などできやしない。映画館に足を運びたいという思いはあるが、幸いにも諦めるのには慣れている。
それと同時に、「非正規の人間は、非正規の人間を描いた映画を観ることもできないのか」と、ほんの少しだけ苦笑する。
もし、この社会が「努力が足りなかった」の一言で切り捨てられるなら、非正規の人間や経済的弱者と呼ばれる人びとや私は、相当に努力が足りない人間なのだろう。だが、自分たちだけではどうにもならないことまで「自己責任」と呼ぶなら、そんな自己責任はいらないとさえ思ってしまうのだ。
最後になるが、この一首を紹介させてほしい。
「図書館に行けば数十年後でも残る言葉があるのだろうか」
萩原慎一郎さんの言葉が、まさにその「残る言葉」なのだろうと思う。彼のおかげで、三十一文字の魅力を知ることができた。まだこの世界の入り口に立ったばかりだが、どうしようもなくやりきれない夜に出会ったとき、何度でもこの1冊をひもといていきたい。そして、思うのだ。どうかこの1冊が、1人でも多くの人びとに届く未来の姿を。
お金もなく、頼れる人もいないと思い込み、狭く切り取られた曇天の下で生きている貧しさにあえぐ人びとにとって、この1冊はどう響くのだろう。たとえ貧しさではなくとも、どうにもならない孤独を抱えている人に、この言葉達はどう届くのだろう。
暁に向かって、震い立たせてくれる。それだけの力が、この『滑走路』にはあると信じてやまない。
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