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【訃報】武田完兵(たけだ・かんひょう=本名:武澤博)さん。73歳。

2021年8月27日(金)夜、台東区にある簡易宿泊所の居室において心肺停止状態で倒れているところを宿の管理人に発見された。その後、警察により死亡が確認された。

武田さんは路上演奏家。1975年の台東区議会議員選挙をはじめ、台東区長選挙、東京都議会議員選挙など、これまで10回の選挙に立候補した(区議選5回、都議選3回、区長選2回)。

選挙の際は、武田寛(たけだ・かん)、武田完兵(たけだ・かんべえ)、武田完兵(たけだ・かんひょう)の通称で挑戦を続けてきたが、一度も当選することはなかった。最高得票は2019年3月17日投開票の台東区長選挙で得た2666票。

2018年10月には、それまで暮らしていた浅草橋の自宅が行政代執行で取り壊され、住処を失った。自宅取り壊しの前日、私の自宅には武田さんからの手紙が届いた。

「ついに家がなくなります」

数日後、武田さんの自宅があった場所をたずねると、家は跡形もなく撤去されて更地になっていた。敷地の境界には黄色と黒のトラロープ。「立入禁止」の札がかけられていた。

それでも旧宅前の道路には見慣れた風景があった。武田さんは道路にたくさんの荷物とともに自転車を置き、ブルーシートをかけていた。自転車のハンドルには決して枯れない情熱の薔薇、造花の赤いバラが飾られていた。

2019年3月、武田さんはここを「選挙事務所」として届け出て、自身2度目の台東区長選挙に立候補した。そして、おそらく全国初の「ホームレス区長候補」となった。

私はこの区長選の際、武田さんに「なぜ選挙に出続けるんですか」と聞いている。武田さんはこう答えた。

「11回でも12回でも13回でも最下位落選を続ける。そういう人が世の中にはいたんだ、という記録が作れるんじゃないか。そして、最後も落選する。武田完兵は落選して死んで行ったと後世に残してほしい」

そう遠くない将来、現実になってしまうのではないかと思われた。私がかける言葉を失っていると、武田さんは前言を翻してこう言った。

「やっぱり最後だけ脚色して、当選するという小説にして下さい。面白いと思いますよ」

路上演奏家である武田さんは「下町のブラームス」を名乗っていた。浅草橋駅の近くで路上演奏をしていると、よく警察に通報された。そのたびに武田さんは場所を移動して路上演奏を続けた。選挙の際には演説だけでなく、個人演説会場として借りた小学校の体育館でピアノの演奏も披露した。

私はピアノに詳しくないが、武田さんのピアノは上手いとは思えなかった。武田さんに素直な感想を伝えると、「キーボードは軽いが、ピアノはタッチが重くて難しい」と言っていた。クリスマス・イブの夜に浅草橋の路上で弾いてくれた「ジングルベル」はキーボードで演奏していたが、時々音が抜けていた。

選挙時の個人演説会では、聴衆にも「ピアノを弾きませんか」と勧めていた。それじゃあ、と会場の女性が弾いたピアノは、残酷なことに武田さんのピアノよりずっと上手かった。自宅を失った後も武田さんは近所のお店に置かれているピアノを借りてピアノの練習を続けていた。

武田さんにとって最後の選挙になったのは2021年7月4日投開票の東京都議会議員選挙(台東区選挙区)だ。武田さんは生活保護費を極限まで切り詰めて60万円を貯め、都議選の供託金に突っ込んだ。

得票は779票で最下位落選。供託金60万円は全額没収された。都議選の投開票日には、ニコニコ生放送の開票特番にリモートで出演してくれた。武田さんは2年後の区長選挙にも出るつもりだった。

武田さんは生前、私によく手紙をくれた。この4年間でもらった手紙の枚数はゆうに100枚を超えている。ミニストップからファクスを送ってくることもあった。しかし、特段急ぎの用件はなく、コピーされたとみられる武田さんの独り言のようなメモが送られてきた。おそらく私の他にも武田さんからの手紙を受け取っている人がいるのだろう。

生活保護の受給が止まったときもあった。武田さんと私の間に金銭のやりとりは一切なかったが、「生活保護は権利です」と伝えたことはあった。武田さんは「権利、権利……。私なんかがもらってもいいのかな。一度止められたから、もう再開されないんじゃないか」と申込みを逡巡しているようだった。その時は別れ際にもう一度「生活保護は権利ですよ」と伝えた。

しばらくして、「生活保護が再開されました」と連絡をもらった。

最後に私宛に送られてきた手紙の日付を見返した。2021年7月22日。東京都議会議員選挙の収支報告書のコピーがメインで、そこに手紙が同封されていた。都議会議員選挙で武田さんが使った選挙費用は2105円。ほぼコピー代金のみだった。

武田さんは自宅を失った後も、時々、自分で旧宅の住所宛にハガキを送っていた。郵便物が届くかどうかを試しているようだった。武田さんは旧宅の向かいにダンボールで作った小さなポストを置かせてもらい、旧住所宛の郵便物を受け取っていた。最後の手紙には、2020年8月に武田さんが自分で旧宅宛に送った複数のハガキのコピーが同封されていた。

私宛の郵便物にはいつも「資料添付。意図はありません。ご自由にお使いください。不要ならご処分ください」というメモ書きがあった。会って話す時も「全部書いてもらってかまわない。なんと言われようとかまわない」と言っていた。今でも武田さんの心が変わっていないものとして、ハガキの内容を書き起こしてみる。

「今、裁判は高裁判決が8月31日。
必ず死にます。 死ねなかった。 私一人残ったから
私が証人であるから 私はゴミ扱いだろう
社会の無関心を知った 2時になります NHK
私は一人でも主張し 戦後民主主義を実現化する
あと20年もすれば現実に戦後教育の人々の社会だが せき多し 昔からウイルスか そんな バカな 悲しい 寂しい むなしい それでも生きる」

「去年の夏はどうしていただろう 今夏の暑さ辛さを感じている
毎日湯浴びしているが この顔のむさ苦しさ かゆい 背中が汗でびっしょり かゆい
清潔な敷布がほしい うちわもない 不快な宿 辛い日々
今NHKラジオで杉原ちうね外交官 役者が語っている 誰かその前にTVの方で原爆投下について。
私は72歳 たくさんそれらの資料は何度も見ている。今横になり乍ら書いている 私の手記である 2020.8.12(水)1時40分」

「私の人生の終末に近いことはまちがいない 100歳まで生きるには環境が悪い 友も一人もなく兄弟すべて失い私一人が残っている 墓も廃墓に扱い 私も回復の力がない
私はピアノを弾いているが評価なし 残るものはなし 幸せではない 虫がいる ハエ、カ、ゴキブリ、ネズミが出る。参る。
TVの前にひょっこり出て来て顔が目が合う 体が大きいのに頭は小さい 昔はもっとおびえたものだ こわがった 平気でいる この二畳の部屋に居るのだ 食をかくさなければならない
冷たい人々 冷たい社会 私は人脈に運がなかった 孤立と孤独 100万円目指して蓄える 生き残り一人の細々とした余生 あとどれ 8/12」

「あとどれ」と、途中で言葉が途切れたハガキのコピー。それとは別の紙に書かれたメモの最後はこう締めくくられていた。

「夏場 外は暑く むしろクーラーのないドヤ(宿)でせん風機、氷を買って昔ながら
ありがとうございました。一応、区切りで終わる。泣く 謝々 完」

【武田完兵さん関連の動画・記事】
●武田完兵候補(2017年東京都議会議員選挙・台東区選挙区)
https://www.youtube.com/watch?v=f6NZpftLZ1c&t=22s

●武田完兵氏街頭演説(字幕入り・6月15日撮影)
https://www.youtube.com/watch?v=bv6vdpKLd94

●2017年7月に武田完兵候補の自宅兼事務所を訪問した際の動画(2:21:25〜)
https://live.nicovideo.jp/watch/lv301535418#2:21:25

●その数9回! “情熱の薔薇”のついた自転車で選挙に出続ける「ホームレス路上演奏家」(『よみタイ』/2019年12月23日更新)
https://yomitai.jp/series/election/03-hatakeyama/

●消息を絶ったホームレス区長候補者を探す選挙のない暑い夏(『よみタイ』/2020年8月17日更新)
https://yomitai.jp/series/election/20-hatakeyama/

武田さん、ありがとうございました。

次の取材につなげたいと思います。よろしくお願いいたします。