ツッコミコミコミ

ボケ・ツッコミの構造から出たい、が、まずなぜここまでこの構造がオーソドックスなものとなっているかを考えなければこのシステムを捨てることはできない。

最近の傾向としてボケとツッコミではなく、ボケとリアクション、という構造がよくみられる、ランジャタイ、かが屋、真空ジェシカもここにいれたい。のようなはっきりボケを否定しないスタイルもあるが、ツッコミの仕事自体は変わっていない。

ツッコミの仕事とは、お客さんに対して、ここは笑っていいところだよーと伝えることが仕事である。そのためボケに比べると喜怒哀楽を大きく取り、ボケとお客さんのギャップをつなぎ、笑っていいものに見せる。

逆説的に、説明を必要としないボケを使う芸人さんのネタにはツッコミが存在しないケースの方が多い。COWCOW、フースーヤ、バンビーノ

次にツッコミの仕事量によるネタの見え方について考える。ツッコミの仕事は前述したとおり、お客さんとボケ、ひいてはネタとのギャップを埋める仕事であるため、ツッコミの仕事量が多いネタはポップに映る。ネタが分かりやすくなるためである。要するに説明が多いからである。逆にツッコミの仕事量を抑えたネタはシュールであったり、センスっぽいという印象を取られることが多い。

漫才に比べコントの方がセンスっぽいものができやすいのはコントの設定上喜怒哀楽の管理がしづらいことも一つ理由としてあると思う。そのため喜怒哀楽が出てしまうような異常事態が設定として使われることが多くなる。



なんかいろいろいいましたが、漫才が全く思いつかなくなりました。ここからは余談で警鐘です。人を笑わせる魂胆のコンテンツは多々ありますが、もともと構造も理解のさせ方も、見る手に任せる解釈の幅もめちゃめちゃ差があるので、ツイッタラーのやっている笑わせ方を漫才に持ってくると説明が多すぎたりなさすぎたり、小説の笑わせ方をコントに持ってくると余白が大きすぎたりするっぽいっす。なのであくまでも自分が面白いと思ったものを自分で考える方が安全でしょう。

猫ふんじゃった、は倫理的に問題がある。踏んだくせに他人事である点、ふんじゃった。の部分に笑いごとで済まそうとしている人間の余裕を感じる。猫は踏んではいけない。という漫才を先週くらいからどうにかできないかなあともんでいます。猫でなければいいのか、ふんじゃった、でなければいいのか。犬、踏みましたはセーフか、亀、踏み抜きました、はアウトか。目に見えているものだけが正しいとは限らない。コンフィデンスマンの世界へようこそ。

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