純然なるおもしろ、ハリウッドザコシショウ

最近読みづらく、主観的な面白い論を展開してきた。その中で重要なのは、何が面白いと思ったから、どう面白いにするのか、それが面白いの源流であり、それを装飾するのが文脈で、その効果を強めるために舞台装置があって・・・みたいな論理を展開してきたけど、この論理では決定的な落とし穴があった。
 この話は何の話か、ってとこで、俺は「おもしろい」に対しての論理であって、「面白いお笑い芸人」ではないという点で、つまりは属人性に対して徹底的に無視した論理構築になっていたということ。
 夢があって、自分がかいたネタをいろんな人にやってほしいということ、日本じゃないとこでそんなことされたら最高。ちょっと表現が差し変わっても最高。
 蝶々夫人がミスサイゴンになったみたいに、時代、風土、演者に影響しない強度があるネタが書けたら最高で、そのネタをつくるための理論を言語化しよったんやけど、それはそれとして

ザコシが面白すぎる。俺が考えよった理論が一つも通ってないのにめちゃめちゃ面白い。
逆説的に、俺が重視してない属人性が高いか、高くないと思う。そりゃ本人がするのが一番面白いけど、その辺のおっさんが眠たくなる福山雅治してもまあまあ笑うと思う、まあまあは嘘、めっちゃ笑う。
福山雅治とザコシに文脈はない。福山雅治と眠いに文脈はない。というより完全に独立している。”完全に”がキーワードで、文脈はどうしても流れるのに、完全に独立しているというすごさがある。
 ザコシに対して、お前と福山雅治似てねえよ!って突っ込まれると、ビジュアルを介した文脈性があるけど、突っ込まれるのはそこじゃないというか、多すぎるというか、とにかく何かを起点にしたツッコミをしたところで解決してないというか。
 福山雅治に眠いイメージねえよ、ガリレオにもねえよ、なんで上裸なん、声くらい似せろよ、なんで福山だけ小道具使うん、
似せる気ないんかい、くらいか、ただその線も”誇張しすぎたシリーズ”で似せることを目的にしていないことを先に周知させてあったりして文脈の付け入るスキを遮断してある。ほんっとにすごい。純粋なおもしろいが成立しとる。ように見える。
 くまだまさしが風呂用の靴みたいなの履いとるのは異質なファッションと不快感のちょうどいいとこやったみたいな話しよったけどその感覚の原点が分からんけどわかるというか。とにかくすごい。
 バカバカしさが面白さの理由だよ、ってのはちょっと乱暴な気がした。という、はな、し

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